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創造主訳聖書なるものについて

 新しい訳の聖書が出された、と宣伝されていたが、うーむと困惑させられる内容の様子。聖書翻訳は大事なことなので、少しコメントしておこうかと思う。

 現物は持っていない。参考までに買っておく、気にもならなかった。なので、以下のことで事実関係が違うぞとおしかりを受けることがあれば、謝罪せねばなるまいが。ただ、チラシやホームページでの説明は見たので、おそらく間違えてはいないだろうと思うのだが。
 このような翻訳を出すのだという話は、少し前に耳にしていた。ちょっとびっくり、でも、その時点での感想としては、すごいものだなあと感心、が先だった。聖書翻訳というものは非常に大変な作業だ。今も新改訳の側と、それから新共同訳の側でそれぞれ次の翻訳作業が進められているが、多大な犠牲を払って格闘している。この創造主訳に取り組んでいる人々は限定されているだろうということは推測できたから、よくぞそれだけの覚悟を持って取り組むものだと、感心した。出来の善し悪しはともかくとしても、その努力だけは評価したいものだと。
 けれど、出てきたものは「現代訳」という既存の翻訳を利用して、チラシなどの説明によればつまりは「神」を「創造主」と置き換えただけのことのよう。今のパソコン技術でなら、こんなことはあっという間にできる。それ以上の改変については何も説明がなされていないので、なされていないということなのだろう。で、唖然として、私としては大いに失望した。努力のかけらも感じない。頑張りましたね、なんて言葉も出てこない。
 もし、創造ということを第一義に聖書を翻訳しようというのならば、その観点で聖書の全文を見直して工夫をこらすべきだろう。言葉を入れ替えただけで良いものではないし、何の意味も効果も期待はできない。
 それに、この出版はおそらく日本で広く読んでもらいたい、教会などでも用いてもらいたいという意図で作られたのだろうと思うのだが、だとしたら、個人訳を土台にしたという時点ですでにその資格を持ち得ない。個人訳そのものを否定するつもりはない。なかなか興味深いものも多々あって、刺激的なものもある。だが、個人訳はそういう刺激性が価値なのであって、つまりはバランスには欠け、全体としては問題があることが大半だ。実際に教会で用い、礼拝で用いるものとしてはやはく委員会訳がふさわしい。この創造主聖書も、刊行会という発行のための委員会を作っているのだから、そこが翻訳に関する責任を持っているのかなと思っていたら、つまりはただの個人訳。これでは意味がない。もし、この程度のものでも必要だと言うならば、現代訳聖書の最初のページにでも、「神はすべて創造主と読み替えてください」と大きく書き記せば済むだけの話だ。
 天地創造そのものについては、私はそのことはとても大事な点だと理解している。このことを抜きにして聖書は語り得ないし、そこを曖昧にしてしまったら信仰の本質がずれていくとも思う。だが、だからといってそれは、聖書に出てくる「神」という言葉を「創造主」と読み替えれば済む話ではない。全くない。何の意味もない。
 このやり方の問題性は、一つには、聖書の原文、つまりもともとのヘブル語・ギリシャ語の文面において、創造主という言葉は用いられていないからだ。本来の聖書自体がそういう言葉を使っていないのにそれに反する取り組みをするのは、聖書の絶対性と優位性を否定するものでしかない。聖書には三位一体という言葉がない。三位一体に該当する内容はもちろんあるが、その用語はない。だから聖書を翻訳する際には、この用語は決して用いない。用いてはならないのだ。聖書には「神は天地を創造された」と書いてあるのであって、「創造主」という言葉は存在しない。ここの違いを勝手に乗り越えるのは大きな間違いだ。
 それから、聖書の出てくる神に関する言葉は、そのほとんどが当時の社会で一般的に使われていた神に関する用語だ。違うのは新改訳では太文字で「主」と表記されているものだけ。これは固有名詞に近いような意味合いで出てくるからもちろん違う。でもこの言葉の意味合いにも創造主という内容はないし、第一、創造主とは固有名詞ではない。
 この本を出版した人々は、聖書の神を「神」と表記するのは間違いだと言う。だとしたら、聖書自体が神のことを当時の一般的な神に関する言葉で表記したこともまた間違いだと言うことになる。聖書はむしろ、つまりは神ご自身はむしろご自分を、世の中の人々が神としてあがめているそれと重ね合わせるようにして、それらではなくて私こそが神なのだ、と告げられた。その意図を受け止めようとするならば、「神」という言葉を使うのがむしろ正しい。
 それに、創造はとても大事な要素だけれど、神のご性質は創造だけではない。聖書ははるかに多くのことを語っているのだから、それを創造だけに限定するのは大きな間違いだ。
 私はむしろ、上記のように、日本で一般的に使われている神という言葉を積極的に用いつつ、まことの神を指し示していく必要があるのだと痛感する。日本の神々とは別の神がいるのではなくて、この方こそがあなたがたの神なのだと示すのでなければ、いつまでたっても人々は、外来の神としか見ないだろう。
 それにクリスチャン自身にとっても、神を理解し、向き合っていく際に、その相手を「神」という概念から切り離してしまうならば、大きな欠損が生ずることになるだろうと危惧する。
 もし、創造の神ということを強調する書物を出版するのであれば、聖書翻訳ではなくて、聖書全体を創造主という観点で説明し直すような解説書か、あるいは聖書物語ようなものを出す方がはるかに意味がある。たとえば、創造という視点からの注解書を出すというのならば、とても興味が持てる。全巻についてでなくてもいい。それらならば、創造の神ということをちゃんと考えつつ聖書を読み、この信仰に向き合うならばどういうことになるのか、ということを指し示す良き参考になるだろう。でも、今回のような類の聖書「翻訳」では何の意味もない。多大な費用もかかっただろうが、あまりにも残念なことであるし、してはならないことだったと、私は思う。

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コメント

「創造主訳聖書」に対する批判はほぼ共感しましたが、

>日本の神々とは別の神がいるのではなくて、この方こそがあなたがたの神なのだと示すのでなければ、いつまでたっても人々は、外来の神としか見ないだろう。

ということにはクレッションマークが付きました。というのは日本の「神」は「セオス=デウス=ゴッド」の訳語として適当ではないからです。意味がまったく違います。つまり日本語の「神」には絶対性が無いわけです。その絶対性の無い神々を崇拝している日本人に対して、あなたが信じている「神」は実は聖書が示している神だのキリスト教の神だのとは言えないわけです。それは相対的な存在を絶対的な存在だと言うことになってしまうからです。
たとえばいまだに天皇を、天照大御神を祖先とする神さまだと思い込んでいる人がいないわけではありません。出雲大社の宮司を神だと信じている人々がいるくらいですから。クリスチャンにとっては驚きですが、彼らにとって「神」は絶対者ではないことを思えば、必ずしも不思議ではないわけです。そのような「神」が、まるでパウロのアテネ伝道のように、あなたが知らずに拝んでいる「神」は天地万物の創造主ですよ、と言ってみたところで意味はないわけです。同じことならほっといてくれと言われそうです。
そうでなくて、やはり違いをこそ示さねばならないと思います。聖書が啓示する神はあくまでも生ける神であり、絶対他者であることを、この異教環境にあってこそ力強く語り続けなければならないと思います。土着化のために肝心な神観で妥協したら、カトリックのような偶像崇拝的慣習を抱え込むことになり、そんなことをしてまで教勢を上げたところで福音は伝えられません。
たとえ教勢など上らずとも、宣教は神のなさること、一人でもいいから確実にキリストの福音を伝えることを優先すべきではないでしょうか?いかなる方法論も、その大前提にもとづいてしかあり得ないと思います。へたな妥協は身を滅ぼします。

投稿: 閲覧者 | 2014/09/10 19:29

 長い文面を読んでくださってありがとうございます。ご指摘のように、日本社会が持っている神観に迎合するようなことは、私も反対です。書きましたのは、もっと積極的な意図でして、「日本社会にはこれこれのような神観がある。それに対して、真の神とはこうなのだ、ということを真っ正面から提示するためにも、あえて、同じ「神」という言葉を用いる方が良いと思う」という趣旨です。旧約、新約の時代に用いられた言葉もまた、そのようなものであったのですから。別の呼称を用いれば違う存在であることは明らかになりますが、それぞれ好きなものを選べば良い、という話にもなりかねません。日本における「神」という言葉が絶対性に乏しいのは承知していますが、それ以上に絶対性を示していて、しかも広く認知されている言葉は見当たらないように思うのですね。

投稿: Kei | 2014/09/13 21:56

日本語のカミも、漢字の「神」もそれぞれ異なるニュアンスがあるようです。それをむりやり一つに括るのはやはり問題がありましょう。明治以前?の翻訳はみな、このGODを何と訳すかで苦心して歴史があると思います。それを大正期だったかに米国宣教団が、聖書翻訳において「神」にしてしまったとも聞いています(多分(*^.^*))
■タイ宣教でも似た問題があるようです。GOD=プラチャオとおとぎ話の神の名を持ってきてしまい、タイのインテリゲンチャの顰蹙と失笑を買っているとか。

投稿: みたえもん | 2016/09/13 10:56

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