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NTライトの本 12

 ライト氏の本に関連して、義認についての話である。

 義認ということを、神の民に属させられること、というふうに理解するのがNPPの考え方だと読んだ記憶がある。つまりは、それゆえにユダヤ教との融合的方向性も見られるのだろうが、その場合の意味合いは、いわゆる民族的な意味でのユダヤ人ということではなくて、神の教えを生きる民、という趣旨、言い換えれば、天と地が重なり合う生き方を目指す者たち、ということのようである。当時のユダヤ人はそれを旧約律法を生きることで進んでいこうとし、クリスチャンたちはキリストの教えを生きることで進んでいこうとするのだ、という趣旨か。このあたりは、NPPの理論そのものを読んではいないので、推測、憶測の域を出ないと自覚しているのだが。
 それでも、このように把握するとしたら、なるほどそういうこともありかと言いたくもなるとは思う。でも、この理論は結局、神の絶対的な御業としての救いというものが軽視されて、信仰者としてどう生きるか、が中心になってしまっている。衰退したキリスト教社会の立て直しには有効な呼びかけかもしれないが、これでは福音とは言い難い。
 もちろん、神の教えを生きることは大切であり、放置して良いものではない。だが、清く正しく生きることが社会全体を神の国とすることに貢献するわけではないことは、日本のクリスチャンたちを見ていれば分かることだ。おそらく世界的にも例を見ないほどに、日本のクリスチャンはまじめに生きている。だが、それで社会がこの福音に雪崩を打って傾倒していくということは、かつて起こったことがない。むろん、伝道、伝道と語っていても、それでも状況は同じでもある。
 神を信じる者として問われるのは、そのように結果が伴わない、事態はなかなか進展しない、それこそ天と地が重なり合う姿がいっこうに見えてこない、そのような状況の中で、それでもなお、神を信じ、神の約束を信じ、新天新地において実現するものをはるかに仰ぎ見ながら歩んでいこうとするのかどうか、そこに信仰というものが問われていくのだと思う。
 ライト氏自身は違うのかもしれないが、彼の提示する理解では、いずれ、天と地が重なり合う姿がなかなか見えないことに失望落胆して、信仰そのものに、神の呼びかけそのものに不信感を抱く人々が起こるのではないかとも思わせられる。

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コメント

著者は、ちょっとクリスチャンに対して期待しすぎる楽観的な終末観なのかと読了して改めて思いました。この辺りはケイさんと同じでしょう。神の国がすでにいまだの時代(著者によると、新しい創造はすでに始まっている新しい時代)、クリスチャンは襟を正して、聖霊によってがんばんなさいよ~と言って鼓舞することは大切であるということはわかります。クリスチャンはこの世界に対して、もっと責任感をもたなければならないことも事実です。クリスチャンは地の塩、世の光として召されているわけですから。そこは受けとめたいと思います。今ここで、著者の終末論に、あれこれ言うのは控えます。これは複雑な問題であるし、立場も盛りだくさんありますから。
著者は功績主義は言っていないと思いますけども、確かに注意は払いたいと思います。東方教会に、自分の救いに人間自身が協働するという考え方<シュネルギスム>があります。しかし、この「協働」を決して「功徳」とは考えないようです。人間に協働する力を与えるのは神であると、人間のあらゆる協働の源泉は究極的には神にあるとしているかです。と言いつつ、功績主義が一歩前に出て、キリストの十字架がかすんでいく危険は、いつの時代にも、どの教派にも、誰にでもあります。

投稿: 斎藤和彦 | 2015/09/19 18:01

 ライト氏については、むろん私自身もよく分かっていないところのほうが多いのですが、手放し的に歓迎されている雰囲気があって、そのあたりの様子に私としては危惧を抱いています。誰でもそうですが、当然に、良いところもあり、疑義のあるところもあり、多種多様な意見の一つとして提示されている分には、それで良いのだと思うのですが(個別の事柄については、それぞれじっくり論議していけばよいことですが)、ただ、ライト氏を提示する人々の様子は、どうもそれとは違うように感じられます。個別の様々な見解については時に賛同しているわけではないという意見が添えられつつも、しかし、全体としてライト氏の思想とか理念的なものが拡散して、その影響をキリスト教全体が受けていく方が良い、という、そんな感覚で紹介されているように感じられるのですね。
 疑問を抱く人の多くは、無視すればいい、というふうに扱っているのかもしれませんが(私も、ライト氏自身の学説そのものは、キリスト教の教え全体を左右するほどのものとは思いませんが)、でも、様々な角度からの疑問点を、いろんな人たちがちゃんと提示していく方が良いのだと、そのように思っています。そういう提示がなされていけば、上記のような受け止め方ではなくて、あくまでも多様な見解の一つ、という抑制的な扱いがなされ得るものと思いますから。
 日本の場合はとりわけ、何かの理念が強く提唱されると、全体としてそれになびく傾向があり、それも、個別の疑問点はさておいてというふうにして歓迎される向きがありますから。

投稿: kei | 2015/09/23 20:41

聖書に関するどのような教え、見解に対してもそうですが、新しく見えるものを警戒し過ぎる余り、古いものは良いとパリサイ人でいる自分に気づかないでいることも愚かですし、かといって、すぐに目新しいものに飛びつくことも愚か。冷静になって、大衆受けする教え(今、主流である教えも含んで)や流行が始まった教えから身を引いた地点から、慎重に判断していくことを心がけたいと思っています。何よりも悪魔は、真理の大海に一滴の毒を注いで、私たちをも欺くことをしてきますから、だまされないようにし、真理と偽りを見分ける霊性を大切にしたいと思っています。と同時に、教会の多様性を受け止める柔軟性も持ち合わせ、うっかりと、毒麦と思って、そうでない麦を毒麦扱いしないように気をつけたいと思います。麦といえば、こちらでは3,4日と、「全国まるごとin秋田・湯沢うどんエキスポ」なるものが開催され、全国から22種類のうどんが大集合!うどんの多様性を満喫できます。鼻からニュルリとうどんが出るほど、全国各地のうどんを食べましょう!でも僕は大衆から身を引きたいので?遠慮します。

投稿: 斎藤和彦 | 2015/10/01 17:54

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