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「聖書信仰」3

 「聖書信仰」という藤本満氏の著作を読んでの感想である。今回は「誤り」についてのことだ。

 少し具体的な中身に入っていこうと思うのだが、この本が聖書の「無誤性」という理解に違和感を持っているようであることは、一読すればすぐに分かることかと思う。もっとも、その「無誤性」という概念の理解には人によって差異があるのかもしれないので、ちゃんと定義していかないと、こういう単語を用いるのはなかなか難しい。かつては無謬性という言葉が、ごく当たり前のようにして、後に取りざたされるようになった「無誤性」と同一の意味合いで用いられていたとの指摘を聞いたこともある。あいにく、この本はその内容的性格のゆえかもしれないが、そういった用語についての厳密な定義を明示しているわけではないので(たぶん)、用語に着目した論議は成立しにくいのだとは思う。

 なので、大ざっぱな話として扱うなら、こういうことだろうと推測する。藤本氏は、聖書には「誤り」があると考えている。いや、この言い方も不十分か。聖書に書き記されている言葉には「誤り」があるというのは自明のことだと考えている、のだと思う。たとえば、同じことを書いている箇所に「矛盾」があるということとか、旧約を引用している新約の箇所が元の箇所と異なっているとか。藤本氏がどこまでを意識しているのかわからないけれど、世間でよく聞く話としては、聖書に書かれている歴史と実際の歴史とには違いがある、というようなことを主張して、聖書に書かれていることには誤りがある、とする論も見られる。そういう意味合いをも含んでの「誤りがある」なのかどうかは、この本だけでは判別できないが。

 「誤りがある」と言っても、藤本氏は決して、聖書が嘘偽りだとか、人々をだまそうとしているとか、そんなことは微塵も考えてはおられないはずだ。そうではなくて、この本の論調からすると、藤本氏としては、様々なずれのようなものはごくごく自明のことで、それを「無誤性」ということを主張するものだから、その自明のことが見ないふりをされてしまっている状況があると考え、そういうあり方に疑問を投げかけている、ように思える。もし、藤本氏の指摘するような状況が実際にあるのだとしたら、それを見ないふりしているのは、確かに誠実とは言いがたく、ちょっと待て、と言いたくなるのもわかる。

 だが、はたしてそうなのか、と思う。一般にずれとして受け止められている事柄は、本当に現実とは食い違っていることなのか、と思う。確かに、人々の常識とは食い違う場合はある。だが、それを言い出したら、聖書は全体として、人々の常識とは食い違う。だいたいにおいて、神の御子が人となってこの世に来るなど、しかも罪ある者たちのために犠牲を払うなど、人の常識からすればありえないこと、嘘偽り、あるいはそれこそ当時のユダヤ社会が考えたように、神に対する冒瀆というふうに受け止められるような話だ。でも、キリスト教はその奇妙な話が実は真実であることを認めている。だとすれば、聖書に書かれている事柄が人々の常識からすると「誤り」に見えていたとしても、本当にそれが「誤り」であるのかどうかは、よほど慎重であるべきなのが、キリスト教信者としてのあり方だろうと思う。

 それに、この「誤りがある」という指摘が、人間の理解レベルにおいても、はたして本当にそうなのかどうかの議論もきちんとするべきではある。たとえば、「誤り」だと思っていたものが、よくよく調べてみると、あるいは考古学などの発見によって事実であったことが判明する場合もある。または、一見して奇妙にしか思えない言葉に、実は神の深い思惑が込められているという場合もある。おかしいぞと思う箇所ほど念入りにその意味を確かめ直す、掘り下げていくというのは、ごく常識的な対応だと思う。

 それに、もしも聖書に多少の変な言葉や表現があったとしても、なぜそれを「誤り」と呼ぶのかについて、私は強い戸惑いを覚える。これは無誤性を重視する側の論理にも見られることだ。たとえばである。聖書に記されている文章表現は、はたしてその全てがギリシャ語、ヘブル語の文法において、常に「正しい」のかどうか。たとえばパウロの手紙は、当時の一流の文学者が添削をしたら、あれこれ文法的に直されてしまうところがあるかもしれない。でも、そうやって直されてしまったら、それでパウロの手紙は「誤りがある」と言われるべきなのか。もともと文章表現などは人によって違いもあるわけで、何が正しいかはそれぞれに違う。夏目漱石の文章を今の中学生が書いたら、きっと学校の先生はあちこちバツをつけるだろう。そういうことは、書き損じ、とは言えるかもしれないし、もっと良い表現、言葉の使い方はあるはず、とは言えるかもしれないけれど、「誤り」とは言わない。少なくとも世間ではそんなことは言わない。

 福音書については、同じ出来事を書いてはずなのにそれぞれに違いが見られるのは変だ、とよく言われる。だが、多角的に提示するつもりならば違いがあるのはむしろ当然で、違わないことが最優先ならば福音書は一つだけにした方がよかった。それに、もともと福音書は他のものと比較検討して読むことを前提に書かれてはいない。当時、そんな読み方ができる環境はまずない。マタイならばマタイ、それだけで読めば良いのであって、その中で指し示されている意図がある。それを、マルコではその意図とは別のことが出てくるからと言って、誤りがあるというのはおかしいはずだ。

 聖書について語る際に、少なくともクリスチャンである者たちが、なぜ「誤り」という概念を持ち出すのかに、私は戸惑いを覚える。学問的な人々は「誤り」という言葉を厳密に定義して使用しているのかもしれないが、世間一般的に言えば「誤り」とはつまり、間違っているところがある、という意味でしかない。聖書には誤りがある、と言われたら、それはつまり、聖書に書いてあることにも信用してはいけない部分がある、という意味になる。そんなつもりはない、と言われるだろうと思うのだが、だとしたらそれは学者の傲慢であると、私は思う。これは藤本氏だけのことではなく、昨今、徐々にそういう言い回しが広がっているような気がしている。

 そして、聖書の成り立ちと権威の問題からしても、この「誤り」という主張がなされることに、私は根本的な疑問を覚える。長くなるので、回を改めて、続けることにする。

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コメント

藤本氏の著著にすぐ反応する。さすがですね。文章の中で「ずれ」という言葉がありましたが、私は首と腰の骨がずれていると言われ、治療中です。聖書も治療が必要なのでしょうかね~。そんなことはないはずです。正しくないのではという意味でのずれを否定しないようなあいまいな聖書観には閉口します。そういう聖書観を抱く人は、神さまに、グギッ、ゴギッと知性と意志の整体をしてもらったほうがいいんじゃないでしょうか?有限な人間の頭で理解できるような神は神じゃないと言われますが、それは聖書にも言えると思います。人間の頭脳で捉えきれない箇所を誤り、ずれと捉えないで欲しい。こういう私は、無批判に何でも信じる者ではありません。信仰を持つ時、聖書に誤りを見つけてやると必死でしたし、聖書に一箇所でも誤りがあるなら、絶対に信じないと誓っていた者です。ほんとうに、一箇所でも誤りがあると受け止めていたなら、信仰なんか持っていません。聖書という真理の大海に一滴の毒でも落とすことは許されません。ケイさんは今回も、逆風を恐れず書いていただき、ありがとうございました。ささやかな風のわりには風速が上がっていたと思いますが、まぁ、ケイさんにとってはいつものことでしょう(笑)

投稿: 斎藤和彦 | 2016/05/06 18:29

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