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心の内のこと

 聖書に、「人はうわべを見るが、神は心の内をご覧になる」という言葉がある。

 第一サムエル16:7に出てくるものだ。神の偉大さを語ると共に、人の見ているものがごく浅いものにすぎないということでもあり、そこには、人にはとうてい、他の人の心のうちをちゃんと見極めることなどできないのだ、という真実が込められている。

 これに関連して、マタイ5章に出てくる、心の内で思うならば、それはすでに罪であるという教えのことを思い出す。心の内をご覧になる神からすれば、思ったという時点と、実行に移した状態と、何も変わりがないではないか、ということになるのだが、この箇所の説明をするときによく使われる、こんな例示がある。

 「日本の法律ではね、心の内で思うだけでは犯罪にはならないのですよ。たとえば、ある人が隣人に殺意を覚えたとする。でも、何も行動しなければ、それだけではもちろん罪にはならない。隣人を殺したいほど憎んで、ばか者と叫んでも、殺人罪にはならない。殺すことを考えて包丁を買いに出掛けたとしても、店の前で引き返せば、何もとがめられたりはしない。包丁を買っても、そのまま家に帰り、料理に使ったら、誰もとがめることはできない。相手の家の前で包丁を持ってうろうろしていたら、このあたりからは法律に抵触する可能性が出てくるが、でも、表面的には親しい関係で、料理を作ってあげると約束して訪ねていくのだとしたら、それはまだ、ただの交流の段階だ。実際に、刃物を振りかざして切りつけて、相手のいのちを奪ったら、それが殺人罪になる。これが世の中の常識。でもね、その人の心の内はどうだろう、最初に殺意を抱いたときから相手に突き立てるまで、その心の内は同じじゃないか。人はうわべを見るが、神は心の内をご覧になるのだ」と。

 人の心の問題、罪の問題、だからこそ、心の内をご覧になっている神の前で、人は申し開きなどできはしないし、無罪を主張などできはしないのだという、大事な教えである。

 でも、こういう教えに対する多くの人の反応は、そんなのは厳しすぎる、そんなのに対応できるような人は誰もいない、という声であり続けてきたはずだと思う。どうぞどうぞ、心の内を全部見てもらってかまいませんよ、などという人はどこにもいるはずがない、と、それは人間としての常識でもあったはずだ。

 SFの題材の一つに、テレパシーというものがあるが、一般には、他の人の心が読める能力のことだけれど、時に、皮肉屋のSF作家はこれを逆転させて、回りの人みんなに心のうちを全部さらけ出してしまうという超能力を持っている人の物語を作ったりする。それがどれほどつらいものであるのかは、簡単に想像できるはずだと思う。

 そう、法律でも、人々の実感としても、あるいは、小説にも用いられるような大前提としても、人はその心の内まで見透かされるようなことはありえないし、人にはそんなことはできないし、神以外、誰にもそれは不可能だというのが、人の世界の真実であり続けてきたのだと思う。

 だから、もし、その壁を乗り越えて、相手の心のうちをちゃんと見定めてやるぞ、というふうに乗り込んでくることになるのだとしたら、それは少なくとも神の前には、あまりにも不遜なこと、そんなことが可能だと考えるあたりからして、神の領域に足を踏み入れようとする、怖れを知らない姿、聖書からすれば、とんでもない思い違いということになる。

 でもどうやら人は、それができると豪語しようとしているようだ。何もこの国の制度のことだけでなく、世界的にも、神に対する怖れを失い、人の限界をわきまえることを忘れ、そして、神に代わるものになっていこうとしている。法律のことだけでなく、ありとあらゆることにおいて、人はいつも、自らの小ささを認めようとせずに、神と同等になろうとし続けている。聖書はそれを明確に、愚かな姿だと告げているのだが。

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