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「使徒パウロは・・・」 2

 NTライトの著作を好意的に歓迎することに対する違和感の正体を探ろうとしているのだが、まず、立ち位置に違いがあるのだな、ということを、意識させられる。

 こういうことだ。NTライトの立っている環境は、おそらく、聖書を重視せず、いや、キリストの御業や神の存在そのものについても懐疑的な観念を抱いている「キリスト教世界」なのだろうと思う。ごく単純化すれば、自由主義神学が広がった状況、とでも言おうか。こういうくくり方が、かなり乱暴な物言いであることは承知しているが。NTライト自身の考え方は、いわゆる自由主義よりもバルトなどの理解に親和性があると思われるが、その意味からも、彼が立っているところ、彼が自らの見解を提示している相手となっている社会は、いわゆる自由主義的な感覚が浸透しているところなのだろうと思う。自由主義という言い方がふさわしくなければ、人間の理性を前提としたキリスト教理解という言い方のほうが適切かもしれないが。

 それで、NTライトは周囲のそういった状況に対して、それは違うと言おうとしているようだ。つまり、神の存在やキリストによる救いのこと、そしてまた聖書の重要性などを掲げて、それらによってこそ真のキリスト教理念はあり得るのだと提示しようとしているようだ。こういうあたりが、福音派の人々に歓迎されやすい理由になっているのかもしれないのだが。でも、繰り返すが、NTライトは福音派的な信仰理解を提唱しているわけではなくて、自由主義的な全体を出発点としつつ、その中での刷新を目指しているのであって、そこには大きな認識のずれが生じるのは、むしろ当然のことだ。

 NTライトの取り組みそのものは、様々な評価があるだろうし、あるいは好意的に受け止められることがあるのもわかる。ただ、彼の語るところを見ていくと、その前提部分は自由主義的なものを一応は受け入れた上で、その前提からのキリスト教理解の刷新を提言している、あるいは構築しているように思われる。結露論的なところで似通ったものを見出したとしても、もし、その前提部分が大きく異なっているのであれば、それはやはり、違いの部分を強く意識しつつ見るべきものだと、私はそう思う。

 一つの例を挙げるなら、親鸞の語った悪人正機説は、聖書の語る福音と似ているのではないか、ということがよく語られている。イエスが告げられた、「罪人を招いて救う」という言葉との類似性である。こういう比較はおもしろいし、比較から見出される真理もあるとは思う。ただ、そういった取り組みをする人はおそらく、親鸞の語ることとキリスト教の語ることとは、前提からして大きな違いがあり、刺激とか参考にはなったとしても、融合させたり、連携させることは不可能だということを、しっかりと意識しているはずだ。あくまでも異なるものだからこその有益な比較、である。

 NTライトの提言に興味を持つのはそれで良いだろうし、この本を見て、確かに、彼のように幅広く理解を広げていこうとする人は昨今減少しているようであるし、その取り組みが興味深く受け止められやすいのはわかる。でも、彼の持つ前提が福音派の持つ前提と異なっているのだとしたら、その違いを明確に意識しつつでなければ、有益な比較あるいは参照もできなくなってしまうのではないか。NTライトが評判のように信仰理解に関して筋を通す人であるのならば、おそらく彼自身が、自分の理解といわゆる福音派の理解とは別の話だと考えているだろうとも思われる。

 具体的に、いくつかの点をあげて、この違い、違和感の源を探ってみることにする。

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