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「使徒パウロは・・・」 4

 この信仰の発端について、である。

 前回述べたように、NTライトは、キリスト教信仰の発端を、彼の言い方を使うならばユダヤ教、そして、ユダヤ教に基づいてイエスの出来事を見て、ここに救い主がおられると確信したパウロの理解にあると考えているようだ。むろん、それが単にパウロ個人の発想ではなくて、神ご自身の御心と合致する真理であるということも含めて、であるが。この考え方は、いわゆる自由主義的な、つまり、キリスト教の理念を人間が編み出した思想形態の一つと考えようとする風潮との対比で言えば、大いに歓迎されるものと考えたくなるのは、よく理解できる。

 ただ、このような理解だとすれば、そこにはキリストご自身という発端、この方によってこそ福音は提示されたのだという権威性が曖昧化し、あるいは失われかねない。彼の理解によれば、イエスは信仰の対象であり、救いの実現者であるのだけれど、そのことを世に対して提示したのはパウロである、ということになる。信仰の内容が妥当であればそれで良いではないか、という意見もあるだろうが、私はそのような考え方にはとうてい同意できない。

 理由はこうである。世の中に、真理とされるものを提唱する人はいくらでもある。下卑たものもあるが、崇高なものもある。そうすると、何が真理であるのかは相対的なものになってしまい、各自がこれと思うものを信じるのみ、ということになる。仏教的には、これで何の問題もない。釈迦は一つの真理を解明したのだが、他の真理がないとは言っていないし、実際に、仏教の思想では、時には矛盾する真理が語られている場合もある。それぞれが悟りを開けばよいのだから、それでも何の問題もない。

 でも、キリスト教においては、これでは困る。パウロがキリスト教理念を悟り、それを世に説いた人、ということであるとしたら、これが真理かどうかは定かではない。あくまでもパウロという一人の人間の理解であり、それを真理と考える人も、考えない人も、発端が人である限りは、どちらでも構わない。たとえば、ルターの主義主張に同意するかどうかは、それぞれの判断次第である。ルターには絶対的な権威はない。でも、もし、キリスト教の思想が、つまり、キリストが救い主であることとか、神による救いのこととか、それがパウロの発見であり、パウロによって思想化されたものであるのだとしたら、パウロだってただの人である、それが真実かどうかの権威性は、全く失われてしまう。釈迦の主張とパウロの主張と、人間の主張ということで言えば、どちらの権威性も大差はない。

 キリスト教が、その理念を絶対だと主張する根拠は、キリスト自身にある。神の御子であることを自ら指し示されたキリストが、その方自身が説いてみせたこと、指し示した福音であるからこそ、その内容は絶対だと、信者たちは確信する。パウロではなく、キリストの教えだからこそ、である。パウロの役割は、あくまでも運搬係である。キリストはご自分では書き記さなかったから、それを受け取って他の人々のために書き表す人たちは必要だし、世界の果てにまで届ける人々も必要である。でもそれはあくまでも運搬係であって、その人々が見出した何か、を他の人々も信じる、のではない。

 NTライトはパウロを重視する。それは、現代人の観念でパウロ書簡を好き勝手に切り刻み、あるいは解釈しようとする風潮と比較すると、とても好ましいことだとも言える。でも、彼によれば、キリストは信仰の対象であり、救いの実現者としてパウロが理解した対象であって、教えそのもの、理解そのものを提示した存在、としての認識はとても希薄なように思われる。もしかすると、キリスト教が大前提になっている領域では、それでも実害は少ないのかもしれない。でも、日本のように、多種多様な思想が、それぞれの権威で語っている社会においては、人間パウロの発見、確信という程度では、それでは、この信仰のみと言うだけの根拠は瓦解する。

 この点で、キリストの神性、という事柄が、とても重要になってくる。そのことを、次回、述べる。

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