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「使徒パウロは・・・」 8

 この連載は今回で終わりにしておくが、最後に、NPPと言えば信仰義認の話、ということで、そのことについて少し触れておく。

 とは言っても、本格的に取り上げると膨大な論議と詳細な探求が必要になるだろうから、それは今のところやめておく。ただ、いくつか、前提的なことで気になったことを挙げておこう。

 まずNTライトは、パウロの教えは信仰義認だけではない、ということを必死に訴えているようだが、それはごく当たり前の話であって、一体なぜ彼はそのことを問題提起するのだろうかと、この前提の部分が気になった。彼はよほど偏った考え方の人々に出会っていたのだろうか。

 次に、義と認める、の意味合いについて、NTライトはそれを、信仰者の共同体に加えられること、というような説明の仕方をしているようだ。救い、あるいは新生ということを、信仰者の共同体に加えられること、という視点で考えていくのは意味があると思う。だが、NTライトの語り方からすれば、いわゆる罪からの救いとか、滅びからの救いとか、死からいのちへ移されることとか、そういうことはあまり意識されずに、何よりも共同体の一員として迎えられること、に注目しているように感じられる。

 ユダヤの論理を前提にすればそうなるのはわかる。彼らにとっては、ユダヤ人という信仰共同体(と彼らが考えているもの)の一員であるかどうかが、つまりは救いの問題であるのだろうし、神のもとに迎えられることとも同一の事柄、というふうに意識されている。そういったユダヤ的な観念を前提としてパウロを理解し、あるいはキリスト教を理解しようとすれば、同様のことが関心事になるのも、話の筋道としてはわかる。

 でも、これでは聖書全体の指し示すものからすると、ずいぶんと小さな、狭いものになってしまう。それに、この観念は、あくまでも当時のユダヤ人が抱いていたとされるものに過ぎず、旧約の概念でもないし、まして、イエスご自身が語り、あるいは行動されたことの中に強く主張されていたことでもない。NTライトが、義認の意味をそのように語るほどに、彼はいったい何を前提として、どこに権威を認めて信仰を持っているのだろうか、と戸惑いを覚える。もしそれが、当時のユダヤ社会が抱いていた理念に依拠するということだとしたら、それには同意しがたい。

 ちなみに、NTライトは様々な箇所についてその意味合いを解説しているが、彼の持つ論理の前提には賛同しかねている者としての印象では、それらの論理はあくまでも彼の前提、彼の持つ結論を念頭にした場合の話であって、かなりフィルターのかかっている理解の仕方であるように思えてならない。もっと素直に読んで良いはずだ、と思うのだが。

 それから、NTライトはルターなどの宗教改革期の人々に対して、異論があるようだ。その理由はきちんと確かめてみるべきだと思うが、そんなにも対抗意識を持たなくてもよさそうなのに、とも思う。ルターの貢献は素晴らしいが、彼はあくまでも一神学者に過ぎない。彼の語るところは霊感されているわけではなく、決して、キリスト教の欠かせない権威でもない。ルターがいなくても、信仰義認の再確認はいくらでもなされ続けているはずだ。だから、そのあたりに強い意識を示している様子は、私には何とも不思議なものにしか見えない。必要のない対抗相手を重視しすぎると、自らも本質を誤るということはよくある話で、ルターらへのこだわりの強さは、そんな危惧を思わせられるほどだ。

 今回、取り上げたのは、この本のごくわずかなことに過ぎないことは承知している。ただ、最初に述べたように、NTライトの立ち位置は伝統的なキリスト教信仰に依拠する者としては、かなり異質なもののはずだ、ということと、それが不思議と肯定されていることへの違和感を探るつもりで、そんな観点での話を書いてみた。

 なお、このようなことを書き留めていたら、NTライトの「シンプリー・ジーザス」という本が出版されたことが宣伝に載っていた。どうやら、彼がイエスについてどのように考えているのかに焦点を絞った話が出ているようだ。とすれば、私がこの本から見て取ったつもりでいる彼の理解が妥当だったかどうかを確かめるためには、読んでみる必要がありそうだ。ほかにも読むべきもの、書くべきものはあるのになあと、誰にも強制も要求もされていないのに勝手に書いているのだから、不平を言える筋合いではないのだが。(ちなみに、「本のひろば」に載っていた書評によれば、どうも、私の把握の仕方はそれほど外れてはいないようだ。)

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コメント

長い連載お疲れさまでした。一つの神学を大局的な見地で見ようとする視点、恵さんの得意技?ですね。「シンプリー・ジーザス」を含めた私の感想を、恵さんに合せて辛口で書いてみます。本当は辛いもの、苦手なんですけどね。それでは以下・・・
N.T.ライトは、「旧約と新約の連続性」「一世紀のユダヤ教の文脈で聖書を読み解く必要性」「ギリシャ哲学の二元論の影響を受け天と地を切り離してしまった弊害」「神の国を地上にもたらす視点」「被造物全体の贖い」「社会、政治への参与」等、これまで見落とされがちであった点に気づかせてくれた。だが、キリスト教の中心を揺るがす危険性も感じ取れる。それは主に、贖罪論と義認論についてである。

贖罪論
 ライトは贖罪論においては、「代理説(罪の身代わりとしての刑罰)」を一つの型として認めつつも、否定的な見方をしている。この点が一番気になった。「神は人々を罰しようとしたが、その代わりに無実のイエスを罰することで良しとされた。もちろん、この説明には、そのような処罰は公正と言えるか、特に愛の行為と言えるか、という容易に答えられない問いが残される」(「シンプリー・ジーザス」あめんどうP321)と語り、代理説へのおきまりの批判を暗にほのめかし、積極的に肯定はしない。反対に、キリストが世界の悪を一身に引き受け勝利したという勝利説のほうを代理説の上に高く持ち上げる。勝利説も聖書が主張しているところではある。しかしながら、代理説を贖罪論の一つにすぎず、しかも積極的に肯定できないと、後方に追いやってよいのだろうか。悔い改め、罪の赦しということがかすんでしまわないだろうか。「そのような処罰は公正と言えるか、特に愛の行為と言えるか」という彼の合理的問いに対して、聖書は、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」(Ⅱコリント5:21)「キリストは、私たちのためにのろわれた者となった」(ガラテヤ3:13)という事実を告げている。キリストは私たちの罪の身代わりとなったのであり、のろいは罪に対する神の責めである。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公けにお示しになりました」(ローマ3:24)。「この方こそ、私たちの罪のための、私たちの罪だけでなく、世全体のための、なだめの供え物なのです」(ヨハネ2:3)からも、懲罰的代理の事実をしっかり受け止めることができる。そして御子の身代わりは、神の愛の行動であった(Ⅰヨハネ4:8~10,ローマ5:8)。

義認論
ライトは新約の神のみわざを新しい出エジプトとして位置づけるが、そうであるなら、出エジプトの際、過越しの子羊が犠牲としてほふられ血を流したことをはじめ、血による贖いの記述から、代理説をしっかりと認めるべきである。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブル9:22)。旧約時代、いけにえの動物が人の<身代わり>となり血を流した。これはキリストによる身代わりの、罪の赦しの予型である。「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています」(エペソ1:7)。血は義認とも関係してくる。「今、すでにキリストの血によって義と認められた」(ローマ5:9)。このように義認は罪の赦しの積極的表現であることがわかる。義認とは罪赦され神との正しい関係に入ることである。それは神と我の関係を外しては考えられない。だがライトは、義認においてこうした個人的な関係性を読み込むことを拒否する。「一世紀における義認とは、人が神との関係をどう確立するかということではありません」(「使徒パウロは何を語ったのか」いのちのことば社P228)。彼は、義と認められるというのは、契約の共同体に加入することを意味し、キリストに対する信仰こそが神の家族のメンバーシップの真のしるしであることを意味するとする。確かに一世紀のユダヤ教徒(現代のユダヤ教徒もだが)は、救われようとして律法の行いをするのではなかった。彼らは、ユダヤ教徒であることによって、神との契約の中ですでに救われているという理解がある。彼らが律法を行うのは契約の民というメンバーシップの一員であることを維持するためであり、また契約の民の特権として行うのであり、それが契約の民のしるしであるからである。そこからライトは、律法の行いではなく<キリストに対する信仰>こそが唯一の契約の民のしるしであるとパウロは主張しているとし、そのメンバーシップに加えられることが義認の意味であると主張し、義認を救済論的にではなく教会論的に捉えてしまうのだ。確かに信仰によって神の家族の一員とされると聖書は告げている(エペソ2:19)。だが、それは救いの恵みの一面である。
ライトは、救われる前のパウロについて、「タルソのサウロは、『行いによる義認』やその他のどんなものであろうと、あらゆる時代に適用する救いの方法には関心を持っていませんでした」(「使徒パウロは何を語ったのか」いのちのことば社P54)と断言し、彼は「神がイスラエルを贖ってくださることを待ち望んでいた」(同P54)という、終末的国家レベルのことだけに関心があったとするが、果たしてそうだろうか。ローマ7章にあるごとく、彼は律法を守ろうとしても個人的に平安がなく、罪に悩んでいた。彼も一個人として罪からの救いを願っていたことは事実である。神の義の要求、神の御怒り、罪意識、空しさ、いらだち、そうしたことが心に渦巻いていたであろうし、そこからの救いを無意識のうちにも求めていたはずである。ライトは罪の赦しを言っていないのではない。メタノイア(悔い改め)についても触れてはいるし、聖霊によって個人が変革されることも告げている。しかし、罪の問題についての扱いが、なぜかゆるく感じてしまうのだ。実際、義認について論じるとき、罪についてほとんど触れることはしない。

福音
ライトの福音は、結局のところ、個人の罪の贖いがぼやけて社会的なものになる。彼の福音の定義は「王なるキリストの来臨によって神の国の支配がこの地上に始まった。だから、福音とは、キリストが王であると宣言することである」ということだが、それ自体はまちがいではない。問題となるのは、キリストを王として宣言し神の支配をこの地にどう表わしていくのかという宣教の課題である。ユダヤ教の一神論は、西欧の神学が語ってきたように、地上から天国に脱出させることではなく、地上(物質界)に神の国をもたらすことに熱心であったという理解、そして、それが聖書の終末論であるという理解から、教会の中心的使命とは、王なるキリストを証しながら、キリストが勝ち取った権威に基づき、天にあるように地にも神の支配が実現していくために、地の塩、世の光として、この地上世界(地域社会、政治)に適切に積極的にかかわっていくということだとする。もっともなことに聞こえるが、だがこれが福音を宣べ伝える教会の中心的使命なのだろうか。キリストはある時、「まことに、あなたがたに告げます。収税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです」(マタイ43:31)と言われたが、神の国(支配)に、心の貧しい者たちが悔い改めて、罪赦されて、入り救われることを願い、懲罰的代理を贖罪の中心に据えながら、十字架のことばを、王なるメシヤを宣べ伝えていくスピリットこそ大切ではないのか。もちろん、神のかたちに造られた者たちとして、地を正しく統治し、管理するという本来の働きに立ち返らなければならないことを意識しながら(創世記1:27,28)。
ライトの終末論によると、マタイ24章の世の終わりの預言は、紀元70年のエルサレム陥落において成就したことになってしまう。人の子なるメシヤが大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るという預言も、キリストの再臨という解釈はまちがいであるとし、それはキリストが天の父のもとに行き、権威を受ける言及で、一世紀に成就したものであるとするわけである。終末論は様々な立場があるので、どうこう言うことではないが、大患難の描写を過去の一世紀のものにしてしまっていることも、彼の社会的福音に影響を与えているのだろうか。
ライトが繰り返し強調するように、天と地が一つになることを待ち望むことは必要である。天と地が一つになる被造物全体の贖いについてはコロサイ1章20節等でも語られており、ニ世紀の聖徒エイレナイオスも、このポイントを強調している。けれども、「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」(黙示21:1)とあるように、新天新地は古い世界の延長線上にあるのではなく、神のみわざとして全く刷新された世界であり、それは人間の宣教によって斬新的にもたらされていくものではない。ライトはそのことはわきまえているようであるが。私たちは、この新天新地にひとりでも多くの方が入ることができるようにと、悔い改めとキリストによる罪の赦しを宣べ伝え、同時に福音のパートナーとして、愛と義の行いによって神を証していくわけである。ライトが社会や政治に淡白であった福音派に警鐘を鳴らしてくれたこと自体は有難いが、まず個人に変革をもたらす罪の赦しの福音、罪の刑罰から救う福音の宣教という点が強調されなければならないのではないだろうか。それこそが教会の中心となる使命のはずである。そして、人々が罪を悔い改め、キリストを罪からの救い主として信じ受入れ、キリストの主権に従い歩み、やがてキリストが再臨され、神の国が完成し、キリストが世界の王として礼拝される日を待ち望むのである。

聖書解釈
ライトの主張を読むと、全体的に、人間の尺度で神と神のわざを計り、すべてを理性の枠の中に押し込み、きれいにスマートに解釈してしまおうとする理性主義、合理主義に立っているように感じる。それは「シンプリー・ジーザス」の前著、「クリスチャンであるとは」(あめんどう)を読んだときから感じていた。理性で受け取りにくい聖句は字義的解釈をしないで比喩的解釈をして、納得してしまっている気がするし、解釈は理性を越えてしまうと思えるものを容易に斥けている気がする。それは大人げないと。それは他の学者たちにも当てはまるであろうが。神という存在は人間の理性の枠内に収まったら、もう神でなくなることはわきまえておきたい。初めに自分の理性ありきではなく、神はみことばを通して何と語っているのかと、その姿勢に執着したい。  

投稿: 斎藤和彦 | 2017/08/03 12:22

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