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「使徒パウロは・・・」 7

 キリスト教を説明する言葉に、啓示宗教というものがある。神の啓示に基づいて信仰が始まり、信仰理解が進んでいくということだ。

 だが、NTライトの語るところを見ていると、キリスト教信仰はパウロによってこそ見出されたのだという認識があるように思う。前述したように、NTライトは決して、パウロが創作したなどとは考えていない。彼の言うところの「ユダヤ教」の伝統に則しつつ、かつ、イエスの出来事を見聞きして、むろん、神ご自身の導きもあると認識しているはずだが、そのようにして、パウロが見出して、パウロによって提示され、パウロによって解説され、体系化された教えであり、信仰であるという、そういう意味合いだ。

 語られている内容は、いわゆる自由主義的な主張と比較すると、伝統的なキリスト教信者にとって歓迎したくなる部類のものも多々あるとは思う。自由主義的な論理に対して、真っ向から対抗している姿勢に好感を抱く人もあるだろう。あるいは、そこに新鮮さを思う人もあるのかもしれない。ただ、その方向性は、伝統的理解に戻したのではなくて、別の方向性を指し示すものに思える。おそらくそれは、伝統的なキリスト教信仰から自由主義に傾倒していった世界において、新正統主義とされる動きが抵抗を示し、結論的には伝統的な理解と類似するものを提示し、ただしその出発点は啓示宗教ではなくて、人によって生み出されていく宗教への変質を伴っていたのと似ているように思う。NTライトの語るキリスト教はやはり、パウロ起源である。日本に暮らす者として、仏教という概念が身近にある者として表現するなら、それはまさに、パウロが開いた悟りであるように見える。

 NTライトにおいても、パウロは自分が教祖になるつもりは皆無で、自分は単に神の偉大なご計画を知ることができて、だから人々にそれを提示しているだけ、という位置づけになっていると思う。でも、その「知った」経緯について、NTライトの語り方からすると、それはやはり悟りの概念に近く、神の啓示による、ではないように思う。

 啓示と言っても、何もご神託的なお告げがあって、というようなことではない。聖書にも神託的な箇所はあるけれど、もっと多くの部分は、多種多様な形での提示である。でも、その多様性も含めて、聖書は神の言葉であり、神の啓示の書であるというのが、キリスト教の大前提なのだと、キリスト教の歴史の大半は、そして、いわゆる福音派は理解し、受け止めてきたはずだ。でも、それがパウロの開いた悟りなのだとしたら、たとえその中身が従来の見解と同じものだったとしても、これは全く別の宗教、別の信仰であろうと、そのように思う。

 この点で、NTライトの提示する議論は、やはり聖書論の課題でもあるのだと考える。聖書論、あるいは聖書信仰にも様々な論点があるけれど、ここで問われるべきはごく基礎的なこと、聖書は神が語り、神が与えられたご自身の書であるのか、それとも、人間たちが思索した結果であって結果的に神の真実を適切に示すものとなり得ている、というものなのか、という点だ。むろん、神の真実とは無関係に人が考え出した理念だ、という考え方もあるのだが、そこはNTライトについて語る際には問い直す必要はないだろうと思いたい。

 で、神が語る、の形態が多様であることは言うまでもない。でも、どのような手法を用いたとしても、神ご自身がそれを意図されて、また、ご自分の告げようとしていることを人類に伝えるために聖書を用いたのだとするならば、それはようするに「神ご自身こそが聖書の著者」であり、そして、その内容について神は全面的に責任を担われるはずである。

 しかし、キリスト教信仰というものが、パウロの悟った神の御心であり、神のご計画であるのなら、あるいは、神がなさった事柄の意味を、パウロが悟ったのだとするのならば(先人たちのものを土台にしたとしても)、それが真実に神ご自身の意図なのかどうかは、どうだろうか、誰にもわからない。後の者たちとしては、神の呼びかけを信ずるのではなくて、パウロの説いてみせた事柄を神の御心だと信じて、それを自分の信念として生きる、ということにならざるを得ない。

 このように考えてみると、NTライトはやはり、聖書を単なる人間の書とし、過去の異物として扱おうとしたいわゆる自由主義的な土壌を前提にしているのだなと、思わせられる。それが常識的である中で、でも、きっと神は人の思いもよらないことをなさったはずだと考え、あるいは、長く語り伝えられてきたキリスト教信仰というものには真の価値があるのだと信ずるとしたら、それは確かに、パウロの悟りに依拠して、それに同意して、自分もこの信念を生きていく、というふうになるのは、それはそれで筋が通る。ただしそれは、聖書自体の語る信仰とは食い違うし、キリスト教の根本的な理解とも食い違うものだと、そのように思われるのだが。

 先にも触れたように、NPPが新正統主義と融和性を持っているのは必然であるのかもしれない。新正統主義の中身を厳密に言うのは、それだけでも大変だけれど、大雑把な言い方をするなら、聖書は、それを読む人が信仰を持って読み、神の御心を受け止めていこうとする時に、神の言葉になる、というふうに語っているはずだ。そう、厳然たる神の言葉に対峙するのではなくて、受け手次第で神の言葉になる。個々人の信念を尊重し、各自の決意を重視するという意味では意義があるようにも見えるし、信じていこうとする者たちとしては、目の前にある聖書を好き勝手に選別したりはしないのだから、神への敬意も感じられるとは言える。でも、そこには絶対的な真実としての神の啓示は存在しない。だから、信じるかどうかはそれぞれの自由で(もちろん自由だが、聖書はどっちでもいいと言っているわけではない)、それこそ釈迦の開いた悟りに共感するも自由、別の悟りに共感するも自由、ということになる。

 人間の力で抑えつけるのには同感しない。組織とか理念によって強制するのも同感しない。でも、神ご自身は圧倒的な権威に基づいて呼びかけているのであって、人はやはり、それにどう応答するのかを問われているのだと考える。でも、NTライトの説明、あるいは新正統主義的聖書観は、神ご自身からの押し迫るような問いかけのイメージは、なかなか見出し得ないように思うのだ。

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