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「使徒パウロは・・・」 5

 NTライトはキリストの存在を重視しているに違いない。だが、その意味合いに関して、違うものを見ているような気がしてならない。

 NTライトの主張は、救い主としてのイエスの存在、キリストとされる、神の用意された大切な存在としてのイエスを、最も大事な存在として認め、尊び、あるいは崇拝するというものであるように思う。このこと自体は、むろん、何ら異論はないのだが、でも、彼の主張と論理展開の中には、イエスご自身こそが一切の始まりであるということ、この信仰の創始者であるということが希薄に感じられる。むしろ、そういった信仰・主張の発端は、パウロにあると考えているようだ。決してパウロが神だなどと言うのではない。パウロが見出した、見出させていただいた神の真理、ということであるが。

 この論理は、パウロを重視してその書簡を探求する際には興味深い手がかりかもしれないが、聖書全体、新約全体の論調からすると、全く合致しない。福音書はパウロの存在を前提とせずに、あくまでもキリストご自身による提示として語られているし、パウロ書簡以外の書もまた同様である。そこにはパウロに由来してこそというようなものはなく、あくまでもキリストから発するものとして、である。それに、初代教会の全体は、決してパウロによるものではない。神は、パウロの活動や彼の書き記したものを用いるのが、後々までの神の言葉、聖書としてはそういう形態が最もふさわしいとお考えになったからこそ、それを多用されているだけであって、当時の教会は、パウロとは関わりなく動いているものはいくらでもある。だいたいにおいて、パウロは自らの使徒性について口を酸っぱくして主張せねばならなかったのだ。言い換えればそれは、当時の教会では、彼の権威性はあまり認められていなかったということである。キリスト教信仰の理解は、決して彼に由来するものではない。

 パウロを重視しすぎる、というだけならば、まだしもである。イエスご自身の権威性、神性についての意識が、この本では希薄に感じられる。たとえば、イエスはその人生の途中で、自らの意味合いについて開眼したというような扱いになっている。もちろん、御子は人としてこの世に来られたのだから、生まれた瞬間に「天上天下唯我独尊」と語ったりするような認識をお持ちだったとは考えない。人として生まれたからには、人の成長に類する認識の成長をも辿られた可能性は高い。でも、人はどこかで、別段、教えられたわけでなくても、自分は「人」なのだと認識するわけで、それは何か修行をした結果ではないし、人生に悩んだ結果でもなくて、ごくごく当たり前に日常を生きていれば認識することである。だとすれば、イエスがご自分を神として認識されたのも、それと同程度の時期と考えるのが妥当だ。あるいは、人はごく初期において、誰が自分の親であるかを認識する。大人になってから、あるいは思春期になってから悟るわけではない。とすれば、イエスもまたそのような時期に、ご自分の親が神であることを認識されたと考えるのが自然だ。もし、イエスが神であると信ずるのであれば、である。

 でも、NTライトの説明によれば、イエスの認識はもっと遅くて、それこそ、たとえば釈迦が悟りを開いたりする、そういう部類のものとして扱われているようだ。これでは、神であるのか、それとも自分を神として考えるようになった人がいたというだけなのか、はっきりしなくなる。イエスという人物が新たな信仰体系を創始した、ということならば、どの時点で悟ったとしてもさほど問題はない。だが、この方が神としてこの福音を人類に提示してくださったのであれば、キリストは地上における存在の初めから神として存在しておられるはずで、その点は明確に主張しておくべきだと、私は思う。

 もっとも、NTライトの語るように、イエスの言動の意味を明らかにしたのがパウロであって、つまりはパウロこそがキリスト教信仰を明らかにした存在であるのなら、イエス自身がいつの時点でどの程度に悟ったとしても、それはさほど問題ではないことになるだろうが。極論を言えば、イエス自身は自覚していなかったとしてしまっても、それを用いた主なる神の御心をパウロが説き明かしたということでいけば、NTライトの語る筋道には合致し得るのではないか。私の理解としては、それはキリスト教の本来の姿とは異質なものだと思っているが。

 ところで、NTライトはウィルソンの主張を取り上げて反論しているが、その様子を見ていても、論点が異なっていることを思わせられる。この本によれば、ウィルソンが語っているのは、イエスの言動とパウロの主張とは大きくずれていて、まるで関係のないものをパウロが新たに創始したということのようだ。それに対してNTライトは、両者の意味合いは合致していると説明している。ただし、NTライトが両者を合致していると言う理由は、イエスはユダヤ教の伝統に則して言動し、パウロもまたユダヤ教の伝統に則して言動し、だからこそ、両者は合致しているのだという、そういう説明のようだ。

 イエスが単なる人なら、あるいは神が救いの実現のために用いられた特別な人間に過ぎないのであれば、この説明でも良いだろう。だが、聖書が語るのは、イエスは圧倒的に超越している神であり、神としての権威に基づいて語り、事を行っておられたということだ。むろんイエスは旧約に即しておられた。それは、旧約もまた神の言葉であるのだから当然である。でも、旧約という神の言葉の権威と、イエス自身の権威とは明らかに同等として扱われている。そういう権威性、特別さというものが、NTライトの語るキリスト像には、どうにも感じられない。彼は決してパウロを創始者とは言っていないし、まして、パウロを神のような権威として扱ってはいない。でも、彼は同時に、イエスをも、パウロと同程度の位置づけで扱っているように思える。むろん役割は違う。一方は救いの業をなし、一方は福音を提示する。そういう意味合いは違うものとして語っているが、でも、同等の扱いであるように感じられてならない。

 この本は、パウロはイエスをどのように理解していたのか、を説き明かそうとしている。でも、この設定はあまり適切ではない。本来、聖書の理解として問うべきは、パウロはイエスから、ご自身のことをどのような存在として指し示されていたのか、である。重要なのはパウロの理解ではなく、パウロはどのように聞いたのか、である。聖書を神の言葉として受け止めるのであれば、パウロはきっと自分の聞いたことを正確に書き記しているに違いないと信頼するわけであるが、あくまでもそれは彼が聞いたこと、受けたこと、である。彼の思想ではない。たとえどれほどそれが真実だったとしても、である。

 NTライトの説くことを詳細に分析、論評するだけの余裕はないが、彼の抱く「神の御子イエス」のイメージと、私が受けてきたはずのイエス像、それは伝統的な理解だと思っているが、それとのずれ、まさに違和感を覚えさせられる表現の例を、少しだけ挙げておく。たとえば彼は、イエスの示したことがユダヤ教の基本に忠実だったと語ろうとする際に、当時のユダヤ人が神を信じていたように、イエスも神を信じていた、というような表現を用いている。だが、聖書にはイエスが神を信じていた、という言い方は出てこないはずだ。イエスは信じられる対象であって、信じる側としては扱われていない。あるいは、パウロの語るところとイエスの語るところの違い(と指摘されていること)について反論するために、パウロはイエスの語ることをそのまま受け継いだのではなくて、独自の視点で同じ本質を人々に提示したのだという論理を展開している(表面的に食い違って見えるとの指摘への反論としてだが)。パウロがイエスとは関係のない論を出したのだという説があるのは承知しているし、それに対してNTライトが両者の主張は合致していると説明しようとしているのを歓迎する人がいるのはわからないでもないが、でも、彼の論理は結局、イエスの絶対的な権威が曖昧になり、結局の所、キリスト教はパウロの悟りに依拠しているという説を別の形で保持するものになっていると、私には見える。でもそれは、伝統的なキリスト教信仰のあり方とは別のものだ。

 イエスご自身の意味合いが軽くなっているのは、NTライトがユダヤ教の理念を重視していることとも関係がありそうだ。本来、ヨハネ1:18などからも、キリストご自身による啓示がなければ、キリスト教信仰の、あるいはまた、主なる神への真の信仰理解というものは始まりようがない。でも、どうやらNTライトは、ユダヤ教自体の指し示しているものはすでにキリスト教理念をちゃんと提示していたのだと理解しているようである。このことについて、次回述べる。

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