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銃規制のこと

 銃による事件が後を絶たないアメリカでは、しかし、銃の規制については強硬な反対があると言う。

 その背景には、独立戦争期からの自衛意識があって、自主独立の精神と銃を持つ権利は切り離せないのだという説明を聞いたことがある。現実問題として、社会の安定や暮らしの安心ということと、個々人が銃を保持する権利を持つこととの兼ね合いを比較考慮した場合、どちらがはるかに利益があるのかという、とても単純な論理が働かないのは何とも解せないのだが、それをさておくとしても、この観念には信仰的な観点から大きな欠落があるように思う。

 改めて言うまでもなく、アメリカはキリスト教信仰を社会観念の土壌として持っている、とされている国である。実態としてのクリスチャンがどれだけいるのかはともかく、様々な理念が語られる際には、キリスト教信仰を前提にする場合は多く、とりわけ、銃規制に反対する層の人々は信仰的に熱心な人々であるとも言われている。だとすれば、実に奇妙である。

 聖書は、神を信頼して、神に委ねることを教えている。自分の力で身を守ることよりも、神に託すことを是としている。だから復讐せずに神に任せよと告げられているし、旧約のように戦いが日常的にあった場合ですら、勝利の秘訣は自らの軍備ではなく神ご自身の関与次第であるということが、何度も指摘されている。悪を行い、人々を害する者たちはもちろん存在するのだが、そして、何らかの対処が必要であることも、そういう悪を憎むという言葉も出てくるのだが、そこに出てくるのは常に、神に祈り、神に求める姿であって、自力救済的な行動を推奨するものではない。

 加えて、そういう課題に対処しようとする場合には、町としての取り組みであったり、あるいは王による統治ということが語られていくのであって、決して、各自がそれぞれに自己防衛をするしかないのだ、というような論理は出てこない。神に委ね、あるいは、神によって立てられた権威に委ねる、という構図である。

 世間一般からは、こういう姿勢に生ぬるいという反発が出ることはありえるだろう。神を信頼していても何も起こりはしないと拒否する人もあるとは思う。あるいは、上のような論理が権力者に悪用されて、「黙って従え、それが神の命令だ」というふうに強いられる危険性もあるのは事実だ。歴史を振り返っても、そういう王たちはいくらでもいた。だから、キリスト教信仰に賛同しない人々、あるいは、神など信じていない、信じるのは自分だけだと言い切る人が、自己防衛の必要性を語り、銃を手放すことはありえないと語るのは、それなりに納得のいく話ではある。善し悪しはともかく、そういうふうになるだろうと予測はできる。神の教えを素直に信じて、自己防衛をやめて委ねてしまう人々を愚かだと批判する声が出るかもしれない。でも、アメリカで起こっているのは、これとは正反対の動きだ。

 銃規制を主張する人々には様々な背景があり、上記のような神の教えに基づいて考える人も、それとは関係なく考えている人もあるだろうから、そっちについては論評しない。問われるべきは、キリスト教信仰に熱心だと主張しつつ、神に信頼すべきだと主張しつつ、けれど、自己防衛を手放すつもりはない、と言い続ける人々である。そこには、信仰内容との大きな食い違いがある。正反対の方向を見ている姿がある。第一ヨハネには、「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者だ」という言葉がある。信仰内容として表明していることと、正反対の言動がまかり通っているのは異常なことなのである。

 むろん、人は罪深く、弱く愚かな者だから、神が教えて下さっている通りには生きられていないというのは現実だ。完全さからはほど遠い。でも、そこではせめて、自分たちが神の教えとは異なった生き方をしているのだという自覚と、そのことへの罪責感は抱いているべきだと思う。もし、銃を手放したくないという信仰者たちが、神の教えはわかるけれども、信じ切れないのだと、不安に勝てないのだ、だから手放せないのだと告白しているのならば、事態打開の道は見出し得るだろう。でも、当然の権利のようにして銃を持ち、それでいて神に頼るのは当然だと胸を張って語っているのだとしたら、それはとても異様な事態であると、私はそう思う。

 念のため、私自身の思いとしては、社会のあり方として、単なる無抵抗主義を標榜しているつもりではない。神の教えとしては、何一つ争いのない世界を目指すべきことだと思っているが、しかし、今の世界の現状はそれに合致できているとは思えない。盗んではいけない、というのが神の教えだから、家のドアに鍵は不要、というふうには考えないように、実態に即した対処に依拠することもありえるとは思う。ただそれは決して、自己防御がすべてということではなく、信頼できる統治機構を形成して、そこに委ねるという方法を選択することでの対応を意図したいものと思う。泥棒に関して言えば、自ら武装して防御するのではなく、鍵はしっかりかけるけれど、抑制や捕縛の類は、そのために備えられている機構に委ねる、というようにである。

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