« 説教中に | トップページ | 節目 »

刑罰代償説

 そんなに聞き慣れた言葉ではないだろうが、キリスト教神学の用語である。

 ごく簡単に言ってしまえば、人は罪あるもので、それをキリストが十字架で死んでくださったことにより、代わりにその刑罰を担ってくださった、それで人は赦しを与えられたのだ、という理解である。キリストの十字架について、その意味合いに関して古代キリスト教の中で論議がなされたのは事実だが、おおよそ、この理解を軸にして受け止めていくのが聖書全体の理念からしても妥当、と見なされてきているはずだ。(この説明では単純すぎるという指摘はあるだろうが。)

 昨今、それに対して異論を提示するものが出てきているらしい。先日のクリスチャン新聞にも、参与論という考え方が提唱されているという記事が載っていた。フォーラムの内容を報告してくれている記事だったが、率直に言えば、そこで提示された主張内容が、記事からすると今ひとつよくわからない。書いてくださった記者にはもうしわけないが、何か論議がなされているらしいぞ、という程度の情報にしかなり得ないようにも思わせられている。

 なので、この参与論について、ちゃんとした本などを読んだ上でコメントすべきなのかもしれないが、ごくごく入り口的なことで、疑問点が思い浮かんだので、書き留めておこうと思う。

 それは、「キリストと一体化することで救われる」(この言い方は記事に載っていたものだ)のだとすれば、キリストは何も十字架で死ぬ必要性はなかった、だろう。この一体化の意味合いにもよるが、刑罰代償論への反論として述べられているのだから、その際の一体化は十字架による贖いではなく、御子キリストとの一体化、言い換えれば、神との一体化という部類の話だと思う。

 神から離れてしまった人間が神の元に戻るならばいのちを取り戻す、という話は、それ自体としては間違いではない。ただし、戻るだけで事は成し遂げられるのだとしたら、十字架はいらない。神との一体化を説く信仰は、東洋においてはいくらでもある。いずれも真剣に、神との一体化を求め、そのための難行苦行も伴うものも多い。だがそこには決して、神の側での犠牲、つまり、御子の十字架というものは存在しない。存在する必要性がない。そんなことをしても意味がないし(せいぜい、神の本気度を示す程度のものだ)、むしろそんなことはせずに、人々が一体化を求めてくるのを超然として待っていれば良い、はずである。

 そういう教え、そういう論理が、人間の知恵としては成り立つことは確かだ。そういう哲学や、あるいは宗教が存在したとしても不思議ではない。ただ、聖書は、キリスト教は、その出発点において十字架というものが存在する。十字架という出来事を抜きにして考えることはできない。だとすれば、参与説では救いは成り立たないと、少なくともキリスト教は告げているのだと言わざる得ないだろう。十字架による贖いを経た上での参与、キリストとの一体化の話であれば、それは十分に考慮する必要がある。だが、贖罪としての十字架とは異なる救いの説明としての参与、神との一体化の話は、キリストを十字架から引きずり下ろすことになろうと、そのように思う。

 あるいは、提示されているのは、上記のようなことではない、別の話であるのかもしれない。だとすれば、その参与説は刑罰代償説との対比で語るべきではない。昨今、キリスト教信仰に関する様々な分野で、従来型とは違う新たな視点というものが歓迎される傾向があるように思うのだが、そして、むろん、従来型の中にある問題性や限界も認めはするけれど、でも、そういう議論は慎重になされるべきものと思っている。

|

« 説教中に | トップページ | 節目 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/49212/66528285

この記事へのトラックバック一覧です: 刑罰代償説:

« 説教中に | トップページ | 節目 »