« 幼児と共に | トップページ | 刑罰代償説 »

説教中に

 先日、教会の人から、こんなことを問い掛けられた。「説教中はどこを見て話していますか」と。

 ありきたりに言えば、例えば会衆の目を見ているとか、原稿を見ているとか、そういう答えをすれば、それで良かったのかもしれないが、この問い掛け、妙に心に染み渡って、しばらく考え込んでしまった。そうか、自分は説教中、何を見て、どこを見ているのだろうか、と。
 しばらく考えていて、それで、あっ、と思ったのは、「見ている」のではなくて、「聞いている」というのが、私の場合はしっくり来る、ということだった。
 見ているという点で言えば、たぶん、視線の置き所としては原稿を見ている。うちは3回の礼拝をしていて、同じ説教をすることにしているので、できるだけ原稿通りにしないと、2回目、3回目の時に戸惑ってしまう。原稿は書き言葉で書いているので、朗読しているわけではないけれど、原稿に基づいて話すというのはどうしても必要、と思っている。なので、見ている時間としては原稿が多いだろう。
 むろん、会衆の皆さんのことも見ている。もっとも、今ひとつ、視力はあまり良くはないので、漠然と、というふうになりがちではある。それに、会衆の反応については、目で見てのものよりも、肌で感じてという感覚のほうが、私にとっては実態に近いようにも思っている。だから、見てはいるけれど、それによって強く影響されることは、たぶん少ない。睡眠を取っている人がいても、別段それでショックを受けたりはしないので、それはまあ、人それぞれ、体調とかその日の都合とか。
 なので、「見ている」という感覚は、説教中は、あまり大きくはない。それなら何をしているのかなあと考えてみて、ああそうかと思い当たったのが、「聞いている」ということだ。
 会衆の心の声を聞いている、みたいな格好良い話ではない。あるいはまた、神様の声を聞いている、というのともちょっと違う。それだと、まるで同時通訳の人が必死に聞いているのと似通ったふうに思えてしまうので、それはちょっと違う。
 で、聞いているのは、自分自身の語っている説教、のようだ。あっ、自己陶酔ではない。あいにくと、自分の声はあまり聞きたくはなくて、礼拝の録音はなされているけれど、自分ではまず聞かない。訓練のために聞くべき、ということは分かっているけれど、読む方は、自分の書いたものを何度でも、それはそれで楽しく読むけれど、後日改めて聞く、というのは好みではない。
 そうではなくて、あくまでも語っているその時の話だ。それはちょうど、誰か他の人の説教を、真剣に、熱心に聞いている時の感覚に違い。語る内容はもちろん知っていて、把握しているのだけれども、それが意識の一部分ではまっさらにされて、そして、初めて聞くようにして、そこで語られていくことに、つまりは聖書の語ることに耳を傾けているような感覚だ。変な話だと言われてしまうだろうと自覚しつつも、説教中の自分の様子として告げることができるのは、こういう感覚なのだ。
 これは、語っている者にとっては意義深いことで、おかげで、何度同じ説教を繰り返しても決してマンネリには感じないし(少なくとも自分自身としては)、新鮮な思いで自分自身が神の語られることに思いを傾けることができる。あまりちゃんと意識していたわけではないのだが、これもありだと、そんなふうに感じたところだ。

|

« 幼児と共に | トップページ | 刑罰代償説 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/49212/66260465

この記事へのトラックバック一覧です: 説教中に:

« 幼児と共に | トップページ | 刑罰代償説 »