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 古い友人が天に召された。

 4歳年上なので先輩と言うべきかもしれないが、教会がまだ小さな頃、青年と呼ばれるような人たちがごくわずかだった頃に、共に集っていた仲間、である。何でも良くできた人で、でも、あまり人前に立つことは好まない、穏やかで、物静かな雰囲気があって、教会の中では「能ある鷹は爪を隠しすぎる」と呼ばれていたものだった。ご飯を食べるときに、けっこう、ぽろぽろとこぼすことが多くて、それを見ながらみんなで、玉にも傷がある、と喜んでいたのも、楽しい想い出だ。
 あれは大学生になった頃のことだったろうか。初日を見に行こうと、彼と、もう一人の仲間と、私と、弟と、4人で彼の車で九十九里まで夜中に走ったことがある。思いのほか簡単に行き着いて、新年礼拝までにはまだ時間があると銚子を目指したのが失敗。途中から成田詣での渋滞に巻き込まれて、途中で諦めて戻ってきたけれど、教会に着いたのは礼拝を終えて、新年の食事会をしていた頃のこと。後々まで、その話題を何度もしていたのだと聞いたが、たぶん、年長者として若い連中を巻き込んだと後悔していたのだろうと、そんなところにも、清々しい優しさを思っていたものだった。
 神学校に行こうと決めたとき、もちろん、教会の人たちが皆さん、応援してくれたのだが、その時、彼が一言、「そうなると思っていた、もちろん行くべきだ」と話してくれた言葉は、とても大きな励ましになったことを、今でも覚えている。
 昨今は、墓前礼拝で年に一度会う、というのがほとんどで、家に遊びに行くというような関わりは持っていなかったけれど、仕事でも、家庭でも、教会でも、じっくりと、穏やかに活躍している様子は、古い仲間としてとても嬉しいものだったものだ。教師という職業柄だろうか、若い頃の物静かな様子とは違って、明るくたくさん話をするようになっていたのは、私にはなかなかに物珍しいものを見る思いを、毎年していたのだけれど。
 厳しい病と格闘をしての最期だった。厳密にはいくつだったのだろう、と名簿を開いてみたら、60歳の誕生日まであと2日、だった。これは新たな始まりであることを知っているし、そういう意味では嘆きはしない。でも、心に宿る寂しさは、拭えるものではない。

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