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葬儀に関するブックレット

 「日本宣教におけるキリスト教葬儀」というブックレットを読んだ。東京基督教大学の発行で、キリスト教葬儀研究会の手によるものだ。

 研究会の意図としては、クリスチャンではない人々の葬儀をキリスト教で執り行うことへの積極的姿勢の提唱、ということだろうと思う。それに関連する、多彩な観点が提示され、踏み込んだ議論もなされていた。いくつかの感想を書き留めておきたい。

 まず思ったことは、そういった葬儀についての異論は相当に根深いのだな、ということだ。私自身は、依頼があれば、その人がクリスチャンかどうかに関わらず、葬儀を引き受けている。常識的に考えても、それが当然だと思っているのだが(もちろん、したくないと思う牧師がいるのは認識しているし、それぞれの考え方だから批判するつもりはないけれど)、このブックレットの口調からすると、私はかなりの少数派、ということなのかもしれない。そうなのか、と驚いた。

 だとすれば、このブックレットが丁寧に説明してくれている、クリスチャンではない人の葬儀を行うことの神学的根拠は、ぜひ、多くの人に読まれるべきだろうと、そう思った。私自身は、「人のいのちは神が与えられたものなのだから、その生涯は、本人の信仰に関わらず、主なる神の御手の中にあるのだと、私たちは信じている」ことと、それから「神はクリスチャンだけの神ではなく、この世界の全ての人にとっての神であると信じている」のだとすれば、「そのいのちの終わりについて、キリスト教での葬儀が望まれるとしたら、それはこの信仰に立つ者としては存外の喜びであること」だけでも十二分な理由になると考えている。このブックレットには、それ以外の理由も様々挙げてあるので、全てに賛同するかどうかはともかくとしても、ぜひ、読んでみて、また、考えるべき大事な提言だろうと、そう思う。

 外部から依頼されての葬儀、を拒む可能性があるとすれば、私が思い浮かぶものとしては、ようするに、「外部」の人だからという点で、それはクリスチャンであるかどうかの問題ではなく、自分が責任を任されている群れとは別の人々のことに、はたしてどれだけのエネルギーを割くことができるのか、という点から、「無理です」という対応が出てくることはありえるだろうと思いはする。

 実際的にも、教会の人の葬儀であれば(家族も含めて)、教会の行事なども調整、変更をしてでも葬儀に取り組むけれど(礼拝だけは動かさないが、それ以外は融通するつもりだ)、外部からの依頼は、スケジュール的に可能であればというのが大前提で対応している。さらに、教会の人たちは会堂で行うことが多いが、外部からの依頼については、葬儀社のホールでの実施のみでの対応としている。小規模の結婚式ならば、格別、会堂の整備などしなくてもそのま対応できるけれど、葬儀はそうはいかない。業者が入っても、結局は教会の人々の支援がなければ不可能だ。でも、そこまでの労力を費やすのは、本来の仕事や活動に支障をきたす。そういう意味での制限はある。

 それに、今のところ、2年に一度程度の依頼であり、まあ、対応は可能だ。これが頻繁に依頼が入るようだとしたら、これに対応するためには、専属の司式者が立っていかないとやっていられない。さらに言えば、今のところやはり、キリスト教式を希望する人はごくわずかで、かつ、元々はクリスチャンで今は教会に行っていない人とか、教会学校に行っていたとか、何らかの関わりがある人たちであるので、それならきちんと応じねばという思いでもある。

 だから、これがもし、このブックレットが将来的な希望として提示しているような、週に一度とか、もっと頻繁な要請があるというようなことになったら、よほど専門的な受け入れ態勢を作り上げないとまず難しい。そういった覚悟があるかどうかは、深刻な課題だ。このブックレットではその当たりについてはあまり取り上げられていなかったようだが、この理念を推進するつもりであれば、具体策の提案まで踏み込んだものがほしい。その点は物足りなさを覚えた。著者のお一人である清野勝男子師の教会ではそういった実践がなされていると聞いているけれど、おそらく、日本で同様の態勢を整えている教会はほかにはないだろうから、意識はあるけれどもごく一般的な対応が精一杯という諸教会が大半の日本のキリスト教界においても可能な方策を、ぜひ、提示されることを願いたい。

 このような課題というのは、言わば物理的な制約から来るものであり、このブックレットが意識している神学的論議からの敬遠とは別の話だ。おそらくブックレットとしては、具体的な課題よりも、人々のあるいは諸教会の意識を問うことから始めるしかないとの認識なのだろう。とすれば、第一弾としてはこういった提示がふさわしいのかもしれない。

 なお、取り上げられている論議の中で気になった点を、ちょっとだけ、述べておく。一つは、クリスチャンではない人の葬儀を行うことの条件のような扱いで、記念会などの継続的な取り組みをしっかり行うことが挙げられていたが、この点は現実性の問題があるように思う。そういった取り組みが有意義であるのはもちろんである。だが、もしそれを条件のようにして提示するならば、結局は入り口を狭めることになるだろう。クリスチャンではない人の葬儀を行う理由からすれば、こういった制限的なものは一切設けずにおくほうが良い。その上で、継続的な関わりができるかどうかは、それは、制度の問題ではなく、教会として、牧師としての関わり方次第、説教などでの語り方次第、というものだろうと思う。

 次に、セカンドチャンスの考え方を導入することへの示唆が提示されているけれど、その考え方自体の聖書的根拠がないことからして軽率に持ち出すべきではないと思うのが一点(明記されていないことはすべて否定、というような意味ではないが、安易な導入には賛同できない。聖書全体の理解との整合性を慎重に見極めるべきであり、過去になされてきた論議では、その当たりの検討は十分ではないと私は思う。人々がそういった淡い思いを抱くことはそれなりに理解できるとしても、この考え方を根拠にして堂々と説教できるだけの確実性には至っていない)、それから、セカンドチャンスの話を持ち出さなくても、クリスチャンではない人々の葬儀の妥当性、あるいは積極的肯定の根拠は十二分にあると思われるので、このテーマにおいては触れる必要性がないと、私はそう考える。

 ちなみに、先祖に対する思いとの兼ね合いについては、セカンドチャンスではなく、また、祖先崇拝でもない、本来的な聖書的対応というものを、改めて整え直す必要はあると思う。結局、今現在、日本の諸教会の中に何となく浸透している感覚は、聖書自体に明確な根拠があるというよりは、日本に福音を紹介してくれた人々が、当時の日本社会の様子を見て思い込んだ事柄に影響されている部分もあるのだから、きちんと問い直すべきだとは思っている。

 最後に、このブックレットの中に提示されている稲垣師の記述は、いわゆる葬儀に関する議論を越えて、もっと大きく日本における福音受容の課題について取り扱っているようだ。詳しく考察するだけの余裕は今はないし、内容のすべてに賛同するわけではないかもしれないけれど、でも、よく読んで、それぞれに考えてみるべき有意義な材料が提示されているものと、そのように思った。

 昨今は、無宗教での葬儀も出てきているとも聞く。だが、仏教は嫌だから、というだけの感覚の人に、キリスト教での葬儀を提唱してもあまり意味はないように思う。むしろ、キリスト教における生死の観念、その信仰というものを前面に出していくことによって、それに関心を持ってくれる人々が依頼してくるというあり方が、本来的であろうかと思う。むろん、受け入れるための態勢、心備えに取り組むことは大いに必要であるのだが。

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コメント

ケイさんは、絶対この本を読まれていると思っていました。当たりましたね。何か賞品ください(笑)。私もクリスチャンでない人のための葬儀の司式は<基本的に>賛成です。けれども、なんというか、妥協精神の死生観で司式はしたくないです。東京基督教大学国際宣教センター日本リサーチ研究員の柴田初男氏がお薦めの「心に残るキリスト教のお葬式」(井上彰三著 新教出版)では、主イエスとブッダを同じにしてしまっていて、焼香があってもいい、とありますし、続編の井上氏の著書「ペットも天国に行けるの?」では、ルカ12章32節「小さな群れよ・・・喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」を引用し、小さな群には鳥や野原の鳥も含まれていると言い、ペットも間違いなく天国へ行けるでしょう、と断言しているようです。釈義ムチャクチャです。こういった死生観の人たちが、キリスト教結婚式のようにいっぱい引き受け、やみくもに、天国、天国と叫ぶようなことになったらやだな~と思います。ホントに。
話は変わって、この前参列した葬式で、私はボケやっちゃいました。葬式が一段落し、喪主(女性)に挨拶しようと思い、礼拝堂の前に立っていると、その方が納棺されているお母様のほうにチラッと目をやり、「喧嘩しましたか?」と聞いてきました。私はお母様と喧嘩した覚えがないので、「いいえ」と返答すると、喪主は私に一輪の花を指し出しました。その時はじめて「献花だったのね」と気づきました。「飾花」だったら勘違いしなかったんですけどね。

投稿: 斎藤和彦 | 2018/06/29 20:53

へえー。そんなふうに説明する人たちがいるのですね。
ペットが天国にいてもいいとは思いますが、でも、何もそんなふうに無理やり的な解釈をしなくても、いくらでも理解は可能ですのに。
この類の話は、結論の是非よりも、聖書の理解が無理に扱われていることが多々あるのが、何より気がかりです。
コメントが届いているのに気づかず、開示が遅れました。

投稿: kei | 2018/07/31 23:18

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