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どっちもどっち

 天地創造の理解について、キリスト教の中でも異なる考え方が存在するのだが・・・。

 一般に、創造科学と称される部類の理解に対して、それとは異なる理解をする人々からは、「聖書は科学の書ではない」とか「現代人の感覚にとらわれすぎている」といった指摘が向けられている。大雑把な言い方をするなら、確かにそういう指摘が妥当な部分もあるとは思う。聖書は現代科学の概念を前提にして書かれているわけではないし、創世記に記されている状況を現代科学によって説明できると断言するのは早計だとも思う。もしかすると、いつか、それができる時代が来るかもしれないが、今の時点では無理な話、と私は思うのだが。
 とは言っても、私は決して創世記の記していることを神話だとか、実際に起こったこととは直接関わりのないことを、何らかの概念を示すために書き記したのだというふうには考えていない。もし理念的なことを伝えようとするだけだったら、聖書はもっと別の手法でこの箇所を表現しただろう。詩篇などに見られるような、明らかに文学的、象徴的表現として、である。預言書などにもそういう表現はある。それとは異なる表現を用いているのは、現代科学的な表現ではないとしても、明らかに、現実に起こったことをその時点で可能だった表現方法を用いつつ、できる限り克明に記録させたのだと受け止める方が、理にかなっている。

 と、今回の話は、その点を話題にしたかったのではなくて、ともかく、そうやって、現代科学の枠に捕らわれすぎていると批判している側の人々が、でも、彼らは聖書と現代科学が対立的ではないようにすることを目指して様々な論理を組み立てているのを見ると、何だ、どっちもどっちじゃないか、と思うのだ。
 現代科学は絶対ではなく、それはいつか根本から覆される可能性はいくらでもある。むろん、だからといって軽視するわけではないし、普段の暮らしや様々な取り組みにおいて、現代科学の論理を前提にした取り組みがなされているのは当然ではある。少なくとも私たちはまだ、それ以外のあり方を知らないのだから。ただ、神に関する事柄の中には、人間が把握できている事柄からは大きく超越したものもあって不思議ではないわけで、それをすべて、現代科学の論理と融合させる必要性があるとは思えない。むしろ、食い違って見えるものがいくらでもある、ということを認めつつ、今のところ、その点の解決はできないけれども、それでも、神が語られることに基づいた生き方は堅持せねば、ということを考えるべきだろう。それを安易に、というか早計に、聖書の語っていることを現代科学の枠内に収まるようにと読み替えようとするのは、かなり危険なことのはずだ。
 まだまだ分かり得ない事柄があるというのは、決してマイナスなことではない。たとえ現代人の観念では解明できなくても、そこに提示されている神の言葉を前提としてなすべき生き方というものは十二分にある。でも、無理に現代科学との融和性を優先してしまうと、あるべき生き方として明確に示されているはずの事柄すらも混乱し、あるいは軽視される懸念がある。

 例えば、始まりではなくて終わりについて言えば、黙示録の理解については、まだまだ確定的なことは言えない部分が多々ある。この世の終わりに何がどうなるのかは、おそらく、その時になってみないとわからないだろう。神はその時を明示なさらないと断言しておられるように、それに関する詳細も黙しておられる。そういう未来図自体はわからなくても、今の私たちがどう生きるべきなのかについては、相当にはっきりと指し示されている。それを、未来図を無理に組み立てようとしてしまうと、せっかくの指針自体が曖昧化し、あるいは崩されてしまうことがある。冷戦時代に流行った終末論が、キリスト教信仰に基づいた生き方としては決して望ましくない方向を喚起していたことは、まだまだ記憶に新しいものである。

 ということで、どっちもどっち、ということを思うのである。

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