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聖書の読み方

 聖書の読み方には留意すべきことがある。

 一つの例として、今日の「ジュニアみことばの光」の記事を取り上げる。この聖書通読冊子は、私たちの教会でも若い世代を中心に活用している人が多いし、私自身も執筆に加わっている。そういう意味からも内部的な影響もあるので、やはりコメントしておくべきと思った次第だ。(ちなみに「みことばの光」では以下のような懸念に基づいて書き記されている。)

 士師記11章後半に記されているエフタの娘に関するところが今日の箇所である。勝利を祈願したエフタが、帰宅時に最初に迎えに出てくる者をいけにえとして捧げると誓願を立て、戻ってきてみたら一人娘が一番に出てきた、という出来事である。これについてジュニみこの解説では、誓願そのものの妥当性に疑問を投げかけつつも、神への誓いを果たすことの重要性を呼びかけている。そういう解説をする注解書もあるのだろうとは思うし、そういう部類の説教がなされたことはあるのだとは思う。

 だが、これは聖書の適切な読み方ではない。出来事への困惑から、結末を文字通りのいけにえではなく、日本風に言えば、尼寺に入れた、みたいな扱いにすることもあるが、聖書の記述そのものからの適合性は見出しにくく、そういう回避がなされていたならと切望するけれど、事態はもっと厳しいものだったと覚悟するべきだろうとは思われる。

 でも、そういう戸惑いが語られてきているように、この出来事はもともとからして適切ではない。神への誓願において、何かを捧げることで神の助けを確実なものにしようとする行動は、それ自体が御心に反している。まして、人をいけにえにするなど、神が最も嫌うと断言している行為である。それは娘であろうが、他の人であろうが同じである。エフタは、最初に出てきたのか娘でなかったら、自分の誓いの愚かさにすら気づかなかっただろう。

 つまり、徹頭徹尾、この時のエフタの行動は間違っている。だとすれば、その行動を信仰のあり方の手本にすることは、微塵にもすべきではない。この事態に陥って、彼が、あるいは娘がすべきだったことは、神の前にひれ伏して、愚かな誓いを立てたことをこそ悔い、謝罪すべきであって、誓いを果たすことではない。彼の行動は、何一つ、「神さまに従う」ことの実例ではない。神に従わなかった悲劇の実例でしかない。

 聖書はきちんと読むべきである。そこに出ている出来事がすべて神の御心にかなう行為であるとは限らない。たとえ信仰の名前でなされていたとしても、である。さばきつかさたちの行動は多くの場合、御心に反するものだった。弟子たちでも、あるいはパウロでも、その行動がすべて正しいわけではない。そこに記録されている行為の意味は慎重に見極めるべきで、信仰の実例とすべきではない場合もあることを、よくよく覚えておく必要がある。それに士師記というものは全体として、人々が神の御心を知らずに自分が良いと思うことをしていた、という状況を物語るものである。そんなところに出ている、しかも聖書全体からして明らかに神に反する行為を、神への忠誠の姿として受け止めるべきではない。

 聖書は神の言葉である。そこに記されていることは真実である。だが、推奨すべきものとして書き記されているのか、それとも過ちの姿として書き記されているのかは、ちゃんと見定める必要がある。それを取り違えると、御心とは全く別の教えが流布されかねない。

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コメント

士師記は難しいですね。私は以前、「ジュニみこ」と「みことばの光」の同日の解釈が正反対だったことに驚き、読者が混乱するので整合性をもたせてください、と聖書同盟にお願いしたことが二回ありました。二回とも士師記であったと思います。私の家族が「ジュニみこ」と「みことばの光」の両方を使ってデボーションをしていたので、気づいた次第です。こうしたことも問題ですが、それ以上に懸念していることがあります。それは、聖書は誤りのない神のことばであることを表明している人々が、狡猾になって、事実上、誤りを容認する方向性に向かっていることです(彼らはそれを誤りとは言わないわけですが。つまり解釈の問題で片付けてしまう)。たとえば、ケイさんも気にしていたジョン・ウォルトンですが、創世記は科学的知識のない古代人が古代の世界観で書いたものということを前面に押し出してしまえば、進化論だって、何だって容認できてしまうのです。これは一例にすぎません。以前、仏典の仏典論を読んだことがあります。仏典には仏様の由来とか、仏様が為した事とか、たくさん記述されているわけですが、小学生が読んでも作り話しであることがありありと解る内容です。しかし、これを作り話で非科学的で非歴史的と読むほうがおかしいというのです。キリスト教的に言えば、書かれた目的は大切な真理を汲み取らせることにあるのだから、批判するほうがまちがっているというわけです。SF小説や絵本を読んで作り話だと笑うほうがおかしいのと同じだというのです。福音派の人は聖書は作り話だとは言いませんが、自分の感覚に合わないところは、心の中で、こういう意図があって書かれているのだと再解釈し、それはまちがいなく神のことばだとしながらも、事実上、新正統主義的な解釈をほどこす可能性があるわけです。最近、そういうものが増えているような気がします。また、最近の韓国に異端の実情を聞くと、私もそう思っていましたが、実に巧妙になってきています。信仰告白は正統派のそれと変わりありません。彼らの出版物をさっと読んでも判別できません。だから、だまされるのです。悪魔は真理の大海に一滴の毒を入れて来る。それを見分けるのは困難ですが、ケイさんは、がんばってください。

投稿: 斎藤和彦 | 2018/08/10 18:20

今回の話は、ご指摘の部類のことではなくて、むしろ、昔から行われてきた士師記の読み方、英雄物語的な扱いの影響の問題だと私は思っています。でも、それとは別に、ご指摘の課題については、よくよく気をつけていたいものとは思っています。

投稿: kei | 2018/08/10 22:22

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