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いわゆる神義論 3

 「悪と神の正義」を読んで思う所を書き留めている。

 第3章に読み進むと、まず、悪の課題について、真剣に、必死に取り組むべきだという主張が示されている。単なる抽象概念ではなく、善と悪との戦いのようなものではなく(という言い方はしていないと思うけれど)、といったふうだ。この扱い方は妥当であるが、いわゆる福音派が提示してきた概念、いや、古来、キリスト教の本流が提示してきた概念は、まさにそういう真剣なものだと思う。N.T.ライトが意識している相手が、自由主義的なものであるのならば納得がいくが、福音派とされるところに育ってきた者としては、彼の提示する枠組みに奇妙な違和感を覚えさせられる。間違っているわけではないが、何かがずれているという印象だ。109ページに福音書が提示していることを丸ごと受け取り、丸のまま飲み込むことが必要だと書いてあるが、N.T.ライト自身の提示しているものが、丸ごとにはなっていないと思う。

 何がひっかかっているのかと、繰り返し読み直してみた。イエスの到来によって、神が悪と全面対決を進めて行かれているという提示は、その通りであるし、語り口調はなかなかに見事なものがあるとも思った。悪に対するイエスの態度、の部分で、癒やしのこと、罪人と食事をしたこと、が取り上げられているが、それらが「一例」であるという前提で言えば、分かりやすい視点だとも思う。ただ、その次の、イスラエルがイスラエルになるように、という部分は疑問が残る。この説明だと、イエスが指し示したのはイスラエルの民に対する呼びかけ、というだけのものになってしまう。そういう理解は、それを異邦人に広げたのは、後の弟子たちが、イエスの教えを読み解いて、その趣旨から拡大適用して、ということになりかねない。でもそれは、主であるイエスの権威を曖昧にし、弟子たちの意図から大きく離れてしまうことになる。

 ただ、このあたりのイスラエルであることについての書き方は、N.T.ライトがおそらく一貫して提示しているらしい、イエスがユダヤ人に対して向けた批判の声の意味は、行いによる救いを求めたことではなくてイスラエルとしての本旨を忘れたことだ、という主張の意味合いを理解するのには役に立つと思う。もっとも、その主張には私は同意できないのだが。当時のユダヤ人の様子についてのNPPの提示は、欧米の学者の間では厳しい批判、事実誤認という指摘もなされていると聞くが、たとえ、彼らユダヤ人がいわゆる行いによる救いを追求していなかったと仮定しても、そうするとイエスは何を指摘し、何故にそこまで対立したのかということが分からなくなってしまうという最大の欠陥がある。本来のイスラエルに、ということがその指摘の内容だと言いたいのだとは思うが、そのようなことであそこまでの対決にはならないし、また、ユダヤ側も批判はできなかったはずだ。彼らはイエスを冒瀆罪で処刑したのだと聖書は明確に記しているのだから、その事実とNPPの主張とは合致しない。

 その点はさておいて、悪との対決が語られ、イエスによる勝利が語られているのに、何がこの違和感の理由なのだろうかと考えていたのだが、こういうことかもしれないと思うことが見えてきているように感じている。実に曖昧な言い方で申し訳ないのだが。それは、悪に対する勝利の意味合い、と言えば良いのかなと思う。もう少し別の言い方にするならば、イエスの十字架の死の意味合いについての概念に関すること、である。

 N.T.ライトの主張をざっくりまとめるなら、人類が罪を犯し、神はその罪と、悪と、全面的に対決されている。とは言え、悪を叩きつぶすというやり方ではなくて、悪の真っ直中で善を行い続けるという方法での対決である。それだからこそ、何の罪もないイエスは、全く抵抗せずに、悪の攻撃によって死をそのままに受け止めていかれた。それこそが悪に対する勝利と解決として神が提示されたことで、だからこそ復活が実現しているのだ、と。もっと詳細に語られているので、これでは不十分だと指摘されると思うけれども、骨子に限って言えば、おそらく、これでよいのだろうと思う。

 なるほどと思う所もある。ローマ12:21にもつながっていく考え方でもある。さらには、そういうあり方こそが真のイスラエルの姿であり、ユダヤ人はそれを忘れ、人類はそれを忘れている。だから、そこへの回復こそが呼びかけていくべき福音、ということになるのだろう。

 この提示自体は、確かに聖書の語る事柄の一部分ではあると思う。ただ、イエスの十字架の意味するところ、その意義というものは、これでは不十分なはずだ。それでは罪に対する真の解決ではない。新約はイエスの十字架を明らかに旧約のいけにえと結びつけている。だが、上の論理の中には、いけにえの概念は存在するべき場所を持たない。聖書はやはり、罪に対する神の取り扱いとして、処罰ということを強く意識している。だからこそ、イエスの十字架はあれほどに悲惨なものになっている。それは悪の真っ直中でも毅然として善を生きるという姿だけではない。このような疑問を投げかけても、それは当たり前のことだという返答があるのかもしれない。でも、少なくともこの章に書き記されていることの中では、このことが希薄、あるいは触れられずにいる。もし、N.T.ライトがそのようには意図していないのだとしたら、大きく誤用される危険を持つ論述になっていると言わねばならないと思う。

 122ページに、教会に求められていることは苦難を受け入れる愛を通してこの世に神の勝利を実行していくこと、だと書いてある。そのことが提示されるのは良い。有意義でもある。必要でもある。だが、それは救いを与えられた者が、そのいのちを生きていく上での方向性の問題であり、福音の核心部分、人が救われるということの意味合いがこのことと取り違えられてしまうならば、それは深刻な課題をもたらすことになると思う。その方向性は、かつて自由主義が、人類の生き方を改善していくことこそキリスト教の使命だというふうに語っていたのと、実は同じ目的になってしまうのではないか。N.T.ライト自身はそれで良いと語るのかもしれないが、新約時代以来のキリスト教の信仰は、それとは別のものだと、私は思う。
(続く)

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