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いわゆる神義論 2

 「悪と神の正義」を読んで思うことをいくつか書き留めている。

 前回も述べたように、従来的な神義論とは基本的な方向性を異にするこの書の問題提起については、共感するものがある。ただ、その概念を見出していくために、NPP的な聖書の読み方をする必要性は全くない、いや、その読み方を用いようとするがゆえに、せっかくの方向性がまたも聖書本来の主張から別の意味でぶれているように、私には思える。この本の全体を詳細に分析する余裕はないが、いくつか特徴的な箇所を取り上げて、申し上げている意味合いを述べてみたい。

 さて、聖書が悪そのものの起源を解説したり、悪の存在の責任をどうするのかという話をしていないのだとすれば(私もそう思う。だからこそ、これまでの神義論は結論を見いだせない論議が続いているのだろうし)、では、神はそういう悪に対して、罪の世界に対して、どのように関わり、どう扱っていかれるのか、ということにこそ注目すべきというこの書の提示は、とても有意義である。そして第二章までに述べられているように、旧約のイスラエルという事例の中に、神が悪の世界とどう向き合っていかれるのか、その姿を見出していこうとするのは、なかなか興味深い扱い方だとは思う。

 ただ、旧約が一貫して語っている、イスラエルが結局のところ神に背き続けているという現実、つまりは、神はせっかく悪と対決してくださっているのに、人はそれには同調せず、むしろ逆の道を歩み続けているという事態についての言及がとても少ないことは気になる。むろん、決して、人類の罪深さやその責任を軽視しているわけではないのだが、全体の印象として、かわいそうな悪い者たちを何とかして助けようとしてくださっている神様、というところで話が途切れているように思うのだ。詩篇に注目すれば、そういう感覚になるのは理解できるが、でも、旧約全体に見られるイスラエルの姿は、それとは大きく違う。旧約聖書は、そこに記されている神の必死の御業を、でも人は拒み続けているという点を強く語っており、それがキリストご自身の御業へともつながっていくはずである。他の著作でN.T.ライトがそのあたりをどう扱っているのかは承知していないが、この書だけで言うと、この視点を重視していかないことが、救いと贖いの意味合いが本来のあり方よりも薄くなってしまうことにも関連しているように、私には感じられる。

 このことは、パウロがローマ書で、イスラエルは神からの格別の呼びかけを受けていたという意義深い扱いの中にあったからこそ、なおさら、彼らの不敬虔というものが、異邦人よりもなおいっそう明確なものとして取り上げられていると告げていることからも、強く意識すべき点として提示されていると言いたい。客観的に見るならば、当時のユダヤ人と異邦人とを比べて、ユダヤ人のほうが悪いなどということは決してないのだけれど、でも、聖書は明らかに、当時のユダヤ人の姿を、異邦人の罪よりもずっと分かりやすい実例として語っている。NPPの著作は、当時のユダヤ人は決して行いによる義認を求めてはいなかったと主張するようであるが、だとしたらなおさら、このこと、神のせっかくの恩恵ある呼びかけを拒み続けてきたという深刻な課題を、より強く、真剣に問うべきだろうと、私は思う。

 というような点が気になるのだが、それでも第二章までは、比較的スムーズに読み進めたことは申し上げておく。 (続く)

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