« いわゆる神義論 4 | トップページ | 夏の休み »

いわゆる神義論 5

 「悪と神の正義」を読みながら考えている。この話は今回で終えるつもりだ。

 第5章に入る。165ページの「第三章では」という部分を見て、先に指摘した課題はN.T.ライトのはっきりとした主張だったことに気づかせられる。彼は伝統的に贖罪神学として考えているものよりも「大きな」話をしているのだと認識しているようだ。でも、贖罪神学の部分を確立しておかないと、キリストの存在も十字架の意味も、少なくとも聖書が語るそれは瓦解してしまう。イエスを神の子とは認めず、偉大なる先駆者のような扱いにするのだったら贖罪の話は飛ばすこともできるだろうし、我々の模範的な扱いに終始するのは当然だけれど、それは聖書の語るところとは別のものだ。N.T.ライトがなぜこのように、贖罪に関することを軽視するような発言をしているのか、その真意は問われるべきだと思う。

 165ページの半ば、罪を認識した上で、その後に抱擁があり得る、という話に、N.T.ライトは強く惹かれているように見える。告げられていること自体はその通りだと私も思う。だが、それは聖書自体の言い続けていることで、ヴォルフが初めて言い出したことではあるまいに、とは思う。とは言え、もしそれが忘れられているのだという問題意識を持っているのなら、こういう提唱そのものは良いと思う。

 168ページからの悪に対する勝利の話は、すでに述べたように、イエスの十字架の意味が従来の神学に比べて軽く見られているため、ここに述べられている程度では、とうてい勝利とは言えまいと、私は思う。語られていることそのものは、神のなさっている勝利の一部分ではあると思うが、これで満足はできない。神の赦しは、キリストの犠牲を土台としている。崇高な理念や寛容の心でなされているものではない。神の愛とは、罪人を愛しています、というだけのものではなく、罪人のためにご自身が犠牲を払って代償を提供してくださったからこそ成り立った救いであることに中心はある。この書が語る勝利は、もし、これだけならば、他の様々な理念や思想と、せいぜい肩を並べうる程度のものになってしまう。決して、他の思想を軽視しているわけではない。それぞれの意義があることは認めている。だが、私だけが道、と語られたイエスの特異性は曖昧にできない。つまり、聖書の語るような贖罪の愛に同感する者にとっては、これは他には代え難いものであるのだし、その部分には興味を抱かない人にとっては、何もキリストでなくてもいい、という話になる。福音とはそういうもののはずだ。

 186ページにある3つの「意味する」は良き提言だと思うし、悪に対する聖書の告げる答えの一部を指し示しているものとして有意義だと思う。ただ、聖書はこのような提唱で済ませてはいない。人にはこれができない、いや、できないと自覚しているという課題を、ローマ書は強く取り上げている。人々に対して提唱するのは良い。だが、結局のところ、それをなさせてくださるのは神ご自身であって、人の決意ではなく、人の熱意でもない。この書は神の偉大さを語るものの、神が悪に対して勝利したという話ではなくて、人が悪に対して勝利するための道筋を語るものになっているように思える。そういう提言も必要だ。でも、それを突き詰めていけばいくほど、人にはできない、でも神にはできる、という聖書が繰り返し語っている呼びかけを思い出させられる。

 キリストによる悪への勝利も、人にもできる、あるいはできてほしいという部類の話になっていたことを思い起こさせられる。キリストに倣うことは大切であるが、キリストにしかできないこともあるのを、私たちは決して忘れてはいけないはずだ。

 この書の提示している方向性、悪の解明ではなくて悪に対する勝利をこそ追い求めていくべき、という提言は有意義であるし、私もそのように思って来た。だが、ここに提示されている勝利のあり方は、聖書が語ることからすれば十分とは言いがたい。その一部分のみ、人の手に届く部分のみを語るばかりのように思う。でもそれでは、人は決して悪には勝利できない。聖書はそう語っているはずだ。

 神義論に関する本は様々あるが、この本のような方向性を示すものは少ないので、興味深く読んだし、私自身も以前から考えていたこと、語ってきたことと合致するものも多々あって、なおさら興味深くも思った。それゆえにこそ、N.T.ライトは何を語ろうとしているのだろうかと、思い巡らしてみたくなったのは事実である。でも、そこに戸惑いも強くなってしまった。なぜ彼は、ここで止めてしまうのか。聖書が語る神の悪に対する勝利を、ここで止めてしまうのか。そうすべき理由は何なのか。彼の提示の仕方からすると、「これは神義論の一部分だけ」というような説明の仕方はありえないだろう。彼はいつもその全体像を常に意識しつつ、個別の話をしているように見受けられる。でも、だとすれば、私が感じた疑問は、キリスト教信仰の理解の仕方としては、かなり重要な事柄だと思われる。
(この話はここまで。)

|

« いわゆる神義論 4 | トップページ | 夏の休み »

コメント

コメントを書くのが遅れました、というか、ライトについては以前コメントしたので、もういいかと思っていましたが、最近出版された「驚くべき希望」を読んだので、ケイさんがライトの贖罪思想にふれてくださったこともあり、以下、その感想を記しておきます。
ライトが贖われた世界である新天新地をゴールとした世界観を強調してくれることはありがたい。キリスト者の地上での責任を語ってくれることもありがたい。ただし、「クリスチャンであるとは」を読んだ時にも感じたことだが、聖書を、自分の理性でスマートに解釈しすぎる傾向があると感じた。顕著なのは、第11章「煉獄、パラダイス、地獄」の<地獄>の解釈である。ライトは誰でも救われるといった万人救済主義を否定しているし、終末の神のさばきを肯定している。ただし、キリストが語ったゲヘナの刑罰を、この地上での神のさばきに限定し、死後に起こり得るものだという読みは拡大解釈で無理があると斥けてしまうのだ。実際、彼は、聖書ではゲヘナの刑罰は死後に起こり得るものとして語っていないと言うが、例えば、マタイ5章29節では、「ゲヘナに投げ込まれる」という表現は政治的文脈の中で語られているわけでもないし、アブラハムとラザロのたとえ話のように、たとえ話の中で言及されているわけでもない。
 ライトは、神に背いた者が死後、ゲヘナに投げ込まれるというのは「拷問の情景が私たちの思いに上るや、不快感で顔を背けてしまう」と言って、生理的にも受け入れがたいようだ。そして、彼は、神に背いた者に対する死後のさばきについては、次のように解釈する。「彼らは、希望を持ちえない彼方へ、さらには憐みのない彼方へと過ぎ去ってしまうのである。美しい田園の真ん中の強制収容所などない。喜びの神殿の中の拷問部屋などない」。これを読んで、「シンプリー・ジーザス」第13章「なぜメシアは死ななければならなかったのか」で、刑罰的代償説に疑問を投げかけた次の文章を思い起こした。「つまり、神は人々を罰しようとしたが、その代わりに無実のイエスを罰することで良しとされた。もちろんこの説明には、そのような処罰は公正と言えるか、特に愛のある行為と言えるか、という容易に答えられない問いが残される」。彼は代理説の贖罪観を否定はしないが肯定もしない。フェミニスト神学者のように、残酷で受け入れられない、とはっきり否定はしないものの、肯定もしない。そして、どの書でも、もっぱら勝利説を称揚する。このように、人間の理性になじめないと感じる事柄は、地獄についても、サタンについても、紳士的で無難な解釈を試みているように思える。自分の解釈について、両極端に陥らないバランスのとれた解釈をしているし、且つ子どもじみた解釈をしていないと自負しているような気がする。そうして、神のみわざを自分の理性の枠内に押し込めようとしてはいないのか。
 彼は、第11章で「聖書のみに根拠を求めるのが必須だと確信する者たち(私も含め)」と言っているが、第4章「イースターの奇妙なストーリー」において、キリストの復活の記述の表面的な食い違いについて、「あまりに仰天し、動転したので、最初の目撃者たちはそれについて異なる説明をしたのだろう」と説明してしまうことにおいて、先の発言を疑ってしまう。その他にも疑問に思える発言が散見されるが、ここまでにしておく。
 私はライトが主張する新天新地に向かった直線的な歴史観に立った世界観は大切にしなければならないと思うが、同時に、この世界は、光と闇、神とサタンの二つの異なる霊性の戦いの場ということを明確に認識した世界観を持たなければならないと信じる。この社会でほんとうに正義を生きたいのであれば。また罪に勝利したいのであれば。だが、そこが弱い気がする。悪の諸勢力に対する勝利は謳うも。この書でも勝利説を称揚しているが、それは良いとしても、刑罰的代理説を脇に追いやってしまうと、キリストへの信仰が萎んでしまうと思うのは、私だけだろうか。

投稿: 斎藤和彦 | 2018/09/21 20:47

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/49212/67082005

この記事へのトラックバック一覧です: いわゆる神義論 5:

« いわゆる神義論 4 | トップページ | 夏の休み »