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いわゆる神義論 1

 「悪と神の正義」を読んだ。このテーマの新しい本が並んでいるな、と思って手にして、著者を見たら、N.T.ライトだった。

 思う所をいくつか書き留めてみたい。

 読み始めて、しばらくの間、なかなかに興味深くページをめくっていったことを申し上げておこうと思う。悪の問題について、いわゆる神義論と呼ばれているテーマに取り組んでいる著作だが、その方向性、基本的な姿勢に共感するものを見出す思いがしたからだ。とても簡潔に言ってしまうならば、「聖書は悪の起源については語っておらず、その代わり、悪に対して神がどうなさるのかということを語っている」という理解は、この諸全体の基軸になっているように思うが、この点については、私は大いに同感であったからだ。

 私としては、以前から思う所がある。一般に神義論は、悪の起源やその理由についての議論を深めようとして、そこで、悪が存在することに関する神の責任はどうなのか、という話が取りざたされる。だが、その点について聖書は決して明確なことを語ってはいないのだから(だからこそこのテーマを扱う諸説が基本的に哲学その他の議論になっているのだろうけれど)、その話題にしがみついてもどうにもならないと、そう思ってきた。自然災害についても、大きな意味での人の悪の結果としての自然界全体の混乱、ということは言えるけれど、個別の災害について、神の意図とか、神の関与、あるいは許容とか、そういう議論を始めても、聖書自体は何も告げてはいない。神が何も告げていないのであれば、議論を進めようとしても答えは出るはずがない。この件に関する議論に費やされるエネルギーは、もっと別のところに注がれるべきだと、このことは以前にも様々な機会に述べてきたつもりでもある。

 でも、残念ながら、多くの議論は、あるいは人々の思いは、原因探しへと向かっている。それはまるで、何かの答えが示されれば、その中身がどうであってもホッとする、というような感覚のようだ。でも、無理に造り上げた理論では、当然ながら説明できるはずもない。いわゆる神義論が出口のない洞穴に入り込んだようになってしまっているのは、必然とも言える。だから、この本の示す議論の始め方には、大いに同意する。

 さてしかし、このように思うからこそ、三つの面から戸惑いを覚えることがある。まずは、N.T.ライト自身に関してである。この人はいわゆるNPPの理念について、現代、代表的な提唱者であると見て良いと思うし、彼の著作はいわゆる伝統的な聖書理解とは異なる手法、姿勢、前提に基づいてなされた結果を提示しているものと言えるのだと思う。当然に、そこには、従来とは異なる理解が提唱され、それが画期的と評価されてもいるのだろう。この本に関しても、NPPそのものを取り扱っているわけではないけれど、その聖書理解を前提として上記のような見解を提示しているのだと見受けられる。だとすれば、私としては言いたい。上記のような見解に至るかどうかには、NPP的な聖書理解の仕方は何の関係もない、と。

 私自身の聖書理解は、いわゆる伝統的な、という部類のものだと思われる。聖書は誤りなき神の言葉という大前提にあるし、それだからこそ、誤りがあってもいい、というような見解が昨今あちこちに見られる(いわゆる福音派の中において)ことに戸惑い、疑問を抱いて、これまでもあれこれ書いてきた。でも、そういういわゆる伝統的な理解の中で、十二分に、上記のような概念は見出し得るし、それが聖書自体の言っている方向性であると胸を張って言うことができる。ライト、あるいはNPPの提唱する適用部分の中には同感するものもあるし、大事な問題提起であると思われるものもある。この書でも扱われているが、天国の概念などについても、確かに、従来の欧米的通説、あるいは人々の思い込みの中には、修正すべきと思われるものもある。だが、そういった改善のために聖書理解の仕方を変える必要性など何もない。宗教改革期の理解の仕方についても、むろんルターやカルヴァンは神の言葉そのものではないから限界はあるけれど、でも、それをNPP的に否定する必要性はない。

 このことは、N.T.ライトが昨今、日本においても好意的に受け止められていることについての私の戸惑いにも関連する。それらの人々が、なぜ、N.T.ライト、あるいはNPPを肯定するのか、直接伺ったことがないのだけれど、関連する著作などを拝見する限りで言えば、どうやら、聖書理解の仕方そのものについては多少の疑義が残るとしてもそこから導き出されていく適用の部分について従来の概念から飛び出した有意義なものがあるから、という意味合いでの好印象があるように見受けられる。提唱する事柄そのものも検証は必要だけれど、従来の概念を打破して、本来、神が指し示されているものをちゃんと見出していくためにはNPP的な聖書理解を持たねば不可能なのだとしたら、あえてそこへと踏み込んで行く人たちが出てくるのも、一応は理解ができる。(私自身は、聖書の理解を変更し、本来のあり方から離れなければ出てこない事柄なのだとしたら、どんなに有意義に見えたとしても、その結論や適用に踏み込むのはふさわしくないと考えるけれど。)だが、上記のことのように、そういった意義ある提唱内容を見出していく上で、何もNPPに寄らなければ不可能などと言うことはなく、それこそ従来的な聖書理解、従来的な聖書信仰において、十二分になされ得るものと、私は考える。むしろ、NPP的に取り扱うがゆえに、本来必要なことからのずれや無理があるようにも、この本を見て、私としては思うところもある。そのあたりについては、今後、いくらかは述べてみようとも思っている。

 その上で、もう一つの面として、従来的な聖書理解によって神の御心を求め、例えば悪の問題に向き合ってきたこれまでの経緯については、なぜ、聖書自体の言うところに踏み込んで行かず、自分たちの概念、あるいは哲学的な探究心のあたりでうろうろし続けてきたのかという点では、強い戸惑いと反省は必要であるとも考える。このことは、話題が飛躍するかもしれないけれど、欧米キリスト教が結局の所、戦争の課題についてまっすぐに向き合えず、追認的な見解ばかりを語り続けてきたことも同類のことと思っている。アメリカの福音派が政治・社会に関する事柄で、日本に暮らすクリスチャンからすると戸惑うような姿勢を示し続けているのも似たような疑念であるが。こういった点が改善されていかなければ、結局、NPPのような概念が歓迎されていく可能性がどこまでも残り続けるだろうとも思う。

 ということで、この本の持つ方向性、あるいは問題提起については共感するものを覚えつつ、だが、読み進めていく中で、様々な疑問や戸惑いが生じていくことをも考えさせられている。この後、いくつか、その戸惑いを挙げてみたいと思っている。

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