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埋葬の仕方

 火葬と埋葬に関して思うのだが・・・。

 牧師として、火葬の場に立ち会うことは多い。そのやり方などは地域による差が大きいのだが、私が見聞きした限りの地域では、おおよそ、できるだけ遺骨がそのまま残るようにして火葬していることが多いようだ。遺骨というわけだし、収骨をするわけだから、骨を残すのが当然、であるのかもしれない。

 ただ、事細かに説明されたりするのを聞きながら、私としてはどうもなじめないものを思う。遺骨に接するのが嫌とか、そういう感覚はない。亡くなった方の生涯を支えてきた大事な身体であり、忌むような感覚もないし、もともと、傷とか血とかに関しても、それでショックを受けたりはしないほうだ。葬儀の際に面と向かって最後の別れをすることも、それもまた意義のあることだと私は思っている。でも、火葬されてから、なお、それも、普段は見ることもない骨の様子まで露わにする必要性があるのかどうかには、違和感がある。地域によっては、あらかじめ斎場のほうでまとめてしまった上での収骨になるところもあるが、この地域はおおよそ、火葬の窯から出たままの状態で人々の所に持ってくる。

 思うに、いっそのこと、もっとしっかりと焼いてあげて、遺骨ではなく、遺灰の状態にした方が良いのではないかと、私はそのように思う。現状は、骨壺もとても大きく、身体の大きな人では入りきらなくて、力で押し込む、つまりは粉々になって灰状態になるわけだし、初めから灰になるまで焼いた方がと、そう思うのだ。

 けっして粗末に扱うつもりはない。実際には遺骨そのものを壺を開けて見る人など滅多にいないのだし、遺骨の形であり続ける必要性は見当たらない。むしろ、灰の状態のほうが、収納する容器も小さくなるし、あの無骨な壺よりもずっと多様なものもありえるし、それに、埋葬に際しても対応がスムーズになる。新しい墓を作る場所がなくなる、というような懸念にも対応できるし、昨今増えてきた散骨にも適している。それに、子どもや孫の世代ならいざ知らず、遺骨のまま、骨壺に入れたまま、永遠に残し続けるべきなのか。それよりも、文字通り土に返すことを考えた方が良いと思われるわけで、その際にも適している。

 墓の問題は、おそらくこれからますます深刻になるだろうと思う。人口減ということは、つまりは受け継ぐ人はいなくなるということで、これはどうにも対応はできない。そうすると、墓地を管理している側では、連絡の取れなくなったところは更地に戻して、という対応をすることになる。それだとしたら、個々の家族ではなくて、もっと大きな領域としての墓に納められていく方が、ずっと適している様にも思う。教会の場合は、関係者が皆で一つの墓に納められていくわけだが、そういう形でなければ、昔のように、市町村単位での墓地に納めていくようなものでも良いのではないかとも思う。その際には、手の中に収まるくらいの缶になっていれば、対応もはるかにようになるはずだ。自治体規模になれば、あたり一帯を心地よい公園にしたり、メモリアル的なことができる施設を併設したりも可能だろう。個別の意識が広まったのは歴史的にはそんなに古い話ではないはずで、人々の意識が移れば、十分にあり得ることだとも思う。

 かなり大雑把な話だけれど、この類の話、寡聞にして、あまり提唱されてはいないように思うので、少し書いてみた。

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