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いわゆる神義論 4

 「悪と神の正義」を読みながら考えている。

 4章に入る。「神の王国が到来したらどうなるか」という作文の話は、なかなかに興味深い。神学校の授業では、ぜひ、やってみたら良いと思う。神の支配について、人の罪について、あるいは終末論的なことについても、その人の認識が描かれていくだろうし、自らの思いがどこに位置しているのかを見いだす良い手がかりにもなると思う。

 この本は、悪についての解明を意図せず、神が悪をどう対処なさるのかを語ろうとしているのだから、この章に出てくるように、神の義が実現していく世界を思い浮かべ、それを目指していこうとする提唱は当然のものであるし、また、そのこと自体には意義があると思う。しばしば、信仰者たちの思いは、自分自身の救いや罪の赦しに対する不安、自信のなさに拘泥することが多く、さもなければ、諦めとでも言うような状態に陥っていることが多い。もっともそれはローマ書で詳細に取り上げられている課題であるのだから、人類そのものが抱えていることなのであるが。だからこそ、この書のように悪のこと、罪のことを取り上げていこうとする際に、先への道筋を見出していくべきと説くのは意義あることだと私も思う。ただ、そうであるからこそ、前回述べたように、神がなさった悪に対する決着というものについては、善を行うことで対決する、という程度のことではなく、十字架そのものの贖いの意義を、もっと強調すべきであるのだが。

 サタンに関する話がここで持ち出されているのも妥当なものだと思う。軽視せず、でも重視しすぎず、という指摘もまた同感である。

 その後の話題も、大まかに言えば共感するものは多々あるし、多少、突飛な話に持っていく場合があるのについても、それはまあ、どのような本でも見られることだから、著者の興味の自由の範囲とでも言っておいても良いのかなとは思う。もっとも、著者は聖書学こそと言っているらしいので、そのわりには大ざっぱなものだなあとは思うのだけれども。

 少しだけ、気になった点を挙げておくと、共同体ということが強く出されすぎているように思う。挙げられている聖書箇所は、そのことを意識したものではないはずだ。ローマ8章は悪の問題に対する答えでもあるけれど、それ以上に、救いの約束という福音の確かさをこそ語るものである。仲介の務めは、取り上げている項目の選択に著者の意図が強く示されていて、聖書そのものの価値観とは必ずしも合致しない可能性はある。が、それは容認できる。個々の内容は、結論はともかくとして、それらの議論を持ち出しているN.T.ライトの問題意識の部分は、どうも社会のあり方についての誤認か、あるいは彼が接している状況に関するものであって、例えば福音派とされる人々の感覚とは別のものだとは思う。むろん、福音派にはそれはそれとしても課題はあるのだが、N.T.ライトが危惧している事柄は、ちょっと当てはまらないように思う。少なくとも日本においては、と言うべきかもしれないが。政治と国家の部分は、このテーマの重要性については私は強く意識しているけれど、でも、ここに示されていることには内容的、論理的な疑問もある。一つ、注目すべきは、この本ではローマ書が繰り返し取り上げられてきているのに、この部分ではローマ書からの言及が何もないというのは、かなり奇妙に思える。N.T.ライトの提示している理解の仕方からすれば、こういう箇所こそ、綿密に聖書に基づいた議論を展開すべきだと思う。刑法や国際紛争についてのところは、内容的に陳腐であったり、具体的な点での疑問はある。

 というように思うのだが、最初に述べたように、神の義がこの世界に満ちていくあり方を思い浮かべ、また、追い求めていこうではないかという呼びかけそのものは有意義である。なおさらに、そういう論議の前提となるべきところでの、福音理解に関する食い違いを残念に思うのだが。
(続く)

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