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創世記1章の再発見より 5

 物理的な意味合いを排除して機能的なものに限定した読み方についてはもう少し述べておきたい。

 ウォルトン氏はこのような読み方を、古代中東の世界観に基づいて、聖書もまたそれに即して書かれているのだという説明によって、提唱しているようである。もしそうだとしたら、先にも述べたように、それはどこまでの時代を含んでいるのだろうか。そして、それらの時代においてもまた、物理的意味合いは排除されて、機能的な意味合いにおいてのみ聖書は語られているのか。

 もし、そのように考えるのだとしたら、聖書に記されている様々な奇跡の類は、全て、実在の必要性はなく、単に伝えたい思想をそういう形で書き記しただけ、というふうに読み替えてしまえることになる。いや、古代イスラエルの存在自体も無視しても良いことになる。そういった民族をイメージさせることによって、神はこの世界に対するご自分の意図を提示なさっただけの話、という読み方すら可能になってしまう。もっともそうなると、なぜ、旧約聖書が古代中東の概念で書かれる必要があったのかという前提自体が意味をなさなくなるだろうが。

 先にも述べたように、ウォルトン氏の言う影響は新約の時代も含まれるのだろうか。そうでないとすれば、物理的なことへの関心を抱いている時代の人々が、創世記を自分たちの概念で読んでいたことが何も否定されていなかったのはなぜか。それとも、彼らもまた物理的なことは関心がなく、機能的な意味合いのみに意識が限定されていた時代なのだとしたら、とすれば、イエスご自身の存在や十字架や復活も、実際にそれがあったかどうかなどは関係のない、機能的な意味合いを伝えるための叙述の仕方、というふうに読んでしまうことだってできるようになる。ウォルトン氏はそれには反対だろうが、でも、それは彼の単なる個人的な思いに過ぎなくて、聖書的な根拠はない、という話になってしまう。彼の用いている論理を使うならば、そのほうが聖書的、と言えてしまうはずだ。むろん、それは無茶な読み方だ。聖書は明らかに、機能的な意味合いも、物理的な意味合いも、どちらも念頭に置きつつ、現実を、事実を書き記しているのだから。

 いろいろと考えてみるに、機能的を物理的と対比されている点が、何よりも大きな混乱のもとであるように思われる。すでに述べたように、機能的という意味合いを大事に受け止めていこうという提唱は聖書の理解をより深めていくものとなり得る。だがそのことを物理的と対比すべき理論として扱うことによって、この書が提示している議論は全体像が混迷してしまっていると、私には思われる。
(続く)

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