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創世記1章の再発見より 2

 この本は、機能的ということに注目して話を進めているので、まずはそのことから考えてみる。

 ウォルトン氏の意図は、機能的な意味合いでの創造ということを提示することによって、物質的な創造という視点を除外しようとするものである。本人は、神が物質的な創造をなさったことを認めているとしているようだ。そのことは何度も指摘されている。ただ、同時に彼は、創世記を初めとする聖書の世界観においては、物質的なことには関心がなく、機能的なことを意識して書かれているのだとも繰り返し力説している。この主張には深刻な課題がある。もし、彼の言うように、聖書自体の記述している世界観が機能的なものに限定されているのだとしたら、物質的な創造についての彼の認識は、あくまでも彼の個人的な「感覚」の話に過ぎず、聖書をもとにして信仰を形成しているキリスト教においては、何の意味もないものとせねばなるまい。物質的創造は認めていると彼が語るたびに、その言葉は空しいものとなってしまっている。この人物の記述には混乱があると、私は思う。

 ウォルトン氏が、聖書全体が提示していることに基づいて、神は物質をも創造されたのだと確信しているのだとする。だとすれば、そのように提示されていることは当然に創世記1章にも影響しているはずで、たとえ表面的には機能的な事柄が取り扱われていたとしても(そうであるかどうかについても立証されてはいないと思うのだが)、そこには必ず、物質的な創造の概念が含まれているはずだろう。とすれば、創世記1章を読む上でも、機能的なことだけでなく、物質的な創造についても意識しつつ読むべきはずである。この点でもウォルトン氏の提示には矛盾がある。

 と、こういった課題の部分については、もっと考えていくべきことなので、また改めてとするが、その前に、創造において、あるいは世界観において、そこに神が盛り込まれた機能的意味合いということを意識すべきとの提言については、そのことは大いに意義があると思うことについては述べておきたい。物質的を排除するという部分を除外して受け止めるならば、機能的面に着目することは、創造の御業について、あるいは被造物であるこの世界の理解について、より深いものを見出していくのに有益だ。

 この書が、光の存在の意味から始まって人の存在の意味まで、機能面からの考察をしている中身は、天地創造という神の御業を豊かに知り、また、それに基づいてこの世界を歩んでいこうとするために、有意義な、あいは必要な概念を見出す手助けになるものと、私は思った。機能性という視点を忘れてしまったら、存在こそすれ、自分たちという存在の意味を知ったり、目指すべきものが何かということを知ることができなくなってしまい兼ねない。神がなさっていることというのは、単にそういう出来事がありました、というだけで終わるものではなく、それが何を意図しているのかが必ず伴う。そうでなければ、偶然に事が存在し、また動いているのと何も違いがなくなってしまう。

 もっとも、この視点は新発見というわけではなく、ずっと以前からなされてきている取り組み方ではあるとは思う。創世記1章においても、たとえば「神のかたち」に関する長い長い考察は、人の持つ物質的特性についての話ではなくて、その機能に関する事柄であり続けているはずだ。1994年にビリーグラハム大会が行われた際、フォローアップ委員会では新たな決心者向けの手引きを作成したが、そこには創世記1章に基づいて、人が神のかたちであることの意味合いを、まさに機能的な側面からクリスチャンしく取り上げている。むろんそれも、当時の委員たちが新たな視点を見出したわけではなく、長く継承されてきていたものをまとめなおしたに過ぎない。

 だから、機能的な意味合いについての視点は、この書において初めて見出されたものではなく、その視点は常に意識され続けてきていると、私は思う。ただし、ウォルトン氏が指摘するように、確かに、創造に関する議論の中には、物質的な側面ばかりが取りざたされる傾向はある。だから、改めて、創造の御業において神が機能的側面でどれほど豊かなものを与えてくださったのかを認識すべき、という提言がなされていることは有意義であるし、また、ウォルトン氏が取り上げている機能的意味合いの中身そのものは、なかなかに豊かで魅力的なものになっているとも思う。

 しかし、ウォルトン氏自身の記述からすると、この機能的なことへの視線は、物質的なことへの関心からの離脱が目的で、ひいては、現代科学との摩擦を排除したいということにあるようだ。彼は繰り返しその点の意義、効能を語っている。でも、そういった目的から機能的な面を語るのは、本来の意義からの大きな減退であると私は思う。聖書自体が、現代科学との摩擦をどうしようか、という視点や目的性を持って書かれてはいないのは言うまでもない。それこそ、当時の人々には何の意味もない話になってしまう。聖書が本来持っている提示が、たまたまある時期において、ある人々にとっては現代科学との摩擦(それは他の人には何ら問題性を感じられていないものかもしれない)の課題にとって意味を持ち得ているのかもしれない。でも、言えることはあくまでもそこまでのことのはずで、聖書が提示している普遍的な意義ではない。もちろん、それはそれで意義はある。でも、そういった限定的な目的を前面に出して、聖書の理解を展開していくのは、本来の聖書の読み方としてはとても危険なことだと私は思う。たとえば、ここで現代科学として扱われているものの中身が科学自体の動向の中で変化したら、その時、せっかくの機能的理解というものの存在意義が忘れられてしまうかもしれない。あるいは、この論理によっては解決したと感じない人々もいるだろうし、そういう人々にとっては、なおいっそう、神の創造に関する事柄が縁遠いものになってしまいかねない。これこそ特効薬、のようにして提示すると、それが効かないときの幻滅感はより大きくなってしまうものだ。

 このような点から、ウォルトン氏がこの議論を持ち出している意味合いについて、私は強い疑念を抱かずにはいられない。
(続く)

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