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敬老

 私たちの教会では、9月第二週に、敬老の時を持っている。

 もともと9/15だったのに合わせて設定されたもので、ハッピーマンデーになったけれど、そのまま続けている。もう15年も経ったので、そろそろまた合わせても良いのかもしれないが。

 それはそれとして、敬老という言葉、それは敬うということなのだから、自分よりも圧倒的に大きな存在に対して、その偉大さを認め、尊重し、だからこそ信頼したり、期待したり、という趣旨のはずだ。神を敬うことを思い浮かべてみたら分かる。でも、世の中ほとんどで見られる敬老の行動は、歳を重ねて、いろいろと身動きができなくなった人に対して、何かお世話をしてあげる、支えてあげなければ、という部類のものだろう。だからこそ、敬老と呼びかけても、「私はまだ元気だ、失礼な奴だ」とお叱りを受けることにもなる。本来の意味、心から敬うというものだったら、「私など敬われるような者ではありません」と謙遜から辞退する人はあるとしても、怒りを買うことなどはあるはずもない。

 人はそれぞれに何らかの弱さを抱えているもので、その点については回りの助け、支援は不可欠である。でもそれは「老」の人だけでなく、全ての人に当てはまることだ。だとすれば、敬老を口にする時には、その相手を助けることについて思いを傾けるよりも(それは改めて敬老などと言わずとも当然になされるべきことだから)、その人が持っている秀でたもの、自分にはなかなかまねできないぞと思うこと、それを称賛し、認め、評価していく、さらにはその恩恵を受けたいと願う、つまりは、してあげるのではなくて、してもらうことを望む、それが敬うという行為にとっては本来のものなのだろうと思う。

 いっそ、敬老の対象は昔ながらの風習に合わせて、還暦、つまり60歳以上、ということにするのも良い刺激かもしれない。60歳の人々はまだまだ元気で、「支えられる、お世話される」など自分とは無縁とも考えているだろう。社会的にも、その世代の人に対しては、今まで以上の活躍と貢献を期待するだろう。だからこそ、そういう世代からちゃんと敬老するようにしていけば、もっと上の世代についても、同様の、本来の「敬老」がなされえるのではないか。

 敬老の意味がそういうものになれば、辞退などはあり得ないとも言える。「自分などは小さなものに過ぎないので、敬われる価値などありません」と謙遜する辞退があるだろうに、と言われそうだ。でも、人にいのちを与え、その生涯を与え、その日々を与えているのは神ご自身である。もしそれを、自らの価値を認めないのだとしたら、「それは人の人生を導き守って下さっている神ご自身の御業に対する反論なのですか」と問いかけるべきでもあるだろう。敬われるべきかどうかは、本人に自信があるかどうかは関係がない。

 などと書くと、それは間違いなく、自分の首を絞めることになる。でも、どれほどつたないながらも、神が与えてくださったいのちを生きているのは間違いない。それが価値あるものとしてなされているように、人は誰でもちゃんと生きる責任がある。とすれば、敬老されるという緊張感も必要、そのようにも思う。まあ、私はまだ数年はあるけれど、でも、数年しかないとも言えるわけで、その時に「敬」に値する生き方をできるかどうかには、それこそ全く自信がないのであるけれど、と、自分が書いていることに反して、尻込みしたくなるのは困ったものだ。

 敬老の日というものの、その行事そのもの、社会の感覚そのものを動かすのは簡単ではない。でも、心の持ち方、それについては、常に意識しておきたい。敬老の時は、文字通りにその人々のことを敬い、その偉大さに心からの称賛を向けるべきものにしていきたいものと、そう思う。

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