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創世記1章の再発見より 6

 このシリーズは今回までにして、残りの話題をざざっと申し上げておく。いつにも増して長くなりそうだが。

 ウォルトン氏は何度も、現代科学を肯定しているわけではない、と言っているし、進化論を支持するわけではないとも言っている。また、すべての論点は聖書から導き出された成果から始められたものだという姿勢も告げている(聖書よりも古代中東の文書が優先されているようではあるが)。だが、それと同時に、現代科学と信仰との摩擦を回避したいということや、進化論を否定する必要性はないのだということの論証としての提言であることを告げている。この書全体の様子からすれば、その性格はやはり、純粋に聖書自体の探求を目的としたところからのものではなく、科学との関わりを念頭に編み上げた論理と言うべきだろうと思われる。内容の是非については様々な評価があるとしても、この書の基本的な性格がどこにあるのかは見定めておくべきだと思う。

 ウォルトン氏は様々な論点を挙げつつ自説を立証しようとしているようだが、それが十分に成し遂げられているかどうかについて、私は疑問を覚える。その原因の一つは、自ら提示した論点が曖昧なままに放置されるという場面が見られることにもあると思う。

 たとえば、物理的と機能的のことについて、その両立はだめなのかという反論が出てくることは予測しているのだと語り、それについては後述すると言っていたが、結局はその解説はなされないままに放置されている。こういった傾向が最も分かりやすく見出されるのは「よくある質問」としていくつも挙げられているものへの対処である。そこには、自身の論に対して投げかけられるであろう疑問点がいくつも挙げられている。とても手厳しい、氏の論を根本から揺り動かしかねない疑問点も取り上げられているので、それをもあえて自ら持ち出す姿勢そのものは、とても誠実な態度であるとも感じる。だが、それではどのように答えているのかということを見ていくと、残念ながらそこにあるのは実に曖昧で、論理性が欠落している答え、または、結局のところ何も答えていないというようなものがいくつも見受けられる。ウォルトン氏はこれらの記述によって十分に答えているつもりなのだろうか。いや、本人の誠実さを信じるのであれば、実はこれらの疑問にはまだ答えられないのです、と告白するために載せたのだと受け止めざるを得ない、そのようなQ&Aになっている。

 提言16にある論も、ウォルトン氏の論理が妥当性に欠ける一つの事例と思われる。この書では一貫して、創世記1章に記されている表現は当時の世界観を反映して機能的な意味合いを述べているに過ぎないのだ、というふうに語っていたはずだ。それなのにここでは、世界の起源に関する科学的見地からの提唱に対して信仰の側からは議論をすることはできないのだということを述べている。ウォルトン氏が述べていた「物理的ではない」の話はあくまでも創世記1章に関してのみだったはず、少なくともそういう説明の仕方をしていたはずなのに、突然に聖書全体、あるいはキリスト教信仰全体に広げられているのは妥当な論理とは言いがたい。そしてその根拠は示されていない。あるいは、生物学的進化論に難色を示す理由、ということで3つの内容が挙げてそれらに答えているが、そこに出てくる疑問点はウォルトン氏が、あるいは彼が気づいている程度の議論の内容に過ぎず、事はもっと複雑で、幅広い課題がある。そのことについて、彼は気づいていないのか、そうでなければ意図的に無視して、事を簡易な課題として扱っていると見られても仕方がないだろう。この課題に真剣に取り組むために、この書に示されているような安易な取り上げ方は何の利益にもなり得ないと、私は思う。それは、科学と信仰との関わりを真っ直ぐに見ていくために、決して有用とは言いがたい。

 提言12-15のあたりに記されている、起源に関する様々な見解についての扱い方にも疑問がある。それぞれについての指摘そのものは興味深いとは思う。適切な指摘も含まれているようにも感じられた。ただ、その根拠はほとんど示されていない。この書の性格からして当然に、聖書自体の語るところからしての反論を明確に示すべきところだが、そのような扱いにはなっておらず、単にウォルトン氏の見地が述べられているのみ、と言っても良いかと思う。それでは、少なくともこの書においては意味をなさない。むしろ、そういうことには言及しない方が、はるかに、この本の主張における説得性は強かっただろうが。これらの見解に対して著者がどう考えているのか、ということへの読者の関心が強いのは分かる。私も関心がある。でも扱うべきはそれよりも、先に述べたように、「よくある質問」のようなことについての明確で、十分な根拠を示した応答であるべきだ。

 同様に、公的科学教育に関する提言は、ほとんど意味をなさない。そのような対応は不可能であり、もしそれができるとすれば、その時点ですでに、公的教育に対して信仰的見地からの影響を及ぼしているということになる。もしかするとアメリカという特殊な社会環境ではあり得るかもしれないが、キリスト教的土壌を持っている他の社会でも不可能であるし、日本のようなところでも現実性はない。

 もともと、科学は目的に関して中立である、というのは現実性はない。概念的にはあり得たとしても、しばしば言われるように、必要は発明の母、であって、何らかの発見がなされていくところには、そこに目的があり、人々の願望がある。そういうものが一切排除された単なる探求心をもって取り組む人々もいるかもしれないが、社会全体としてはそれはごくわずかなものにすぎない。かつて、原子爆弾を作った、その時代の最先端の、最も優秀な科学者たちがいた。その取り組みに加わった理由は、単なる中立的な探求心ではなく、戦争に勝つためには必要だと確信していたからだ。そして、だからこそ、戦後になって原爆の実態を知った時に、反対運動にも関わるようになった。もし、純粋に科学的、物理的な関心だけだったら、その結果生み出されたものについて、何ら悔いる必要性もなかったのであるが。ウォルトン氏の科学に関する認識は非現実的である。

 現代科学と信仰との間には摩擦があるとウォルトン氏は思っている。そのような言い方がよくなされているのは承知している。だが、本当にそうなのかをまずは検証すべきであるし、また、その打開策は決して、信仰は科学の領域には口を出さない、というようなものではない。それともウォルトン氏は、自然科学に限らず、社会科学や人文科学についても、それぞれの分野での純粋な探求については、信仰は、あるいは聖書は何も語ってはいないと考えているのだろうか。社会科学も人文科学も、それぞれに誠実に、公平に自らの学問、知恵に取り組んでいるのだが、でも、決して自らの取り組みを中立的だとは思っていないだろうし、また、信仰とは別の領域の話だ、などとは考えていないはずだ。まさか、自然科学だけが客観的で、公平な論理性がある、などという前提でウォルトン氏は話を進めているわけではないと思うのだが。

 科学に関する事柄は、もちろんきちんと向き合うべきとは考える。その科学とは、今述べたように、自然科学に限らず、ようするに、人の様々な知恵に関してと言うべきだと思うが。人に知恵を与えてくださったのは神ご自身であり、探究心も、それに必要な資質も備えてくださったのはもちろん神である。だから、それを発揮していくことは当然に御心にかなうことである。ただ同時に、人が取り組むことにはしばしば、神の御心とは別の方向性を持つものもあるし、あるいはまた、人の取り違えというものが存在することもある。何らかの探求自体が適切なものでも、それを適用していこうとするときに間違えることもある。それは自然科学に限らず、人のなすすべてのことに該当することだ。だとすれば、人のなす業に取り組む際には、常に、自らの限界を意識し、また、それに対する神の意図に耳をそばだてる姿勢が欠かせない。信仰と学問とは別の話、というような姿勢は妥当とは思わない。万が一、そうしなければ「摩擦」が解消しないのだとしたら、つまりはウォルトン氏が提唱するようなやり方をしなければ解消しないのだとするならば、それはつまりウォルトン氏はそこに対立があると認識しているのだと、そういう意味になるものと、私は考える。私自身は、両者が対立しているとは考えていないし、いわゆる摩擦は信仰と科学との間の問題ではなく、むしろ、それに取り組む人間の側のあり方の問題だと、そのように考えるのだが。

 ちなみに、私はいわゆる創造科学と呼ばれているものについては、必ずしも賛同しているつもりではない。神が物質も含めて世界を創造されたことについては聖書は確かに語り告げていると確信しているが、でも、例えば世界の始まりが6000年前であるかどうかについて、聖書が明示しているとは思わない。6000年という数字を聖書が主張している箇所はどこにもない。それはあくまでも聖書に書き記されている様々な事象を人間たちが独自に拾い出して計算した結果に過ぎない。とすれば、6000年を認めなければ聖書信仰に抵触する、といったことになるはずはない。私が言う聖書信仰とは、このブログを見てくださっている方は気づいておられるだろうが、かなり厳格な意味合いで、である。古代に書かれた聖書なのだから現代の認識に照らしたら誤りはあっても当然、それで別段価値が損なわれるわけではないぞ、みたいな部類の認識には全く同調するつもりはない。それでも、いわゆる創造科学こそが聖書信仰に基づいた聖書の読み方、というふうに考える必要性は全く覚えていない。とは言っても、ウォルトン氏のようにあっけらかんと、創造科学には賛同しないから進化論は肯定する、みたいなふうに言うつもりはないけれども。進化論の話は、そんなに単純な話ではなく、もっと綿密な論議が必要で、今回、ここで扱うには大きすぎる。そういう意味でも、ウォルトン氏の「科学」に対する扱い方は雑に過ぎると、私は思う。

 「科学」についてこの書が提示しているような姿勢、そして、聖書に対する、あるいは科学、人の業というものについて、この書のような形で妥協を見出そうとするあり方には、私は反対である。それは、聖書に対しても、人の取り組みに対しても、とても不誠実な態度だと、私は思うからである。今回の話の中で科学に関する認識を語る余裕はない。(このブログでも他の機会にはいくらか述べたことはある。)だが、この書のような向き合い方では、答えは見出し得ないし、確かな進展は望めないと、私は思っている。事はもっと真剣に、また、もっと必死で取り組むべき課題であって、この扱い方はごまかしにかなりえないと、私は考えている。

 最後に、199ページの終わりに述べられている、今日までこの理解ができなかった理由についての言及で、ずっと失われていた古代の理解が古代文献に対する現代の取り組みによってようやく解明されて聖書の真実が分かるようになったのだ、という説明については、率直に言って呆れている。以前、コンピュータによって聖書の文字を解析していくと、何らかの法則によって全く別の意味合いが見出される、それが聖書に込められている暗号である、というような説を唱えた人がいた。それが真実だとすれば、コンピュータが発明されるまでの人々にとっては聖書は何の意味もない存在、ということになる。この書も、太古の世界観が数千年にわたって失われていた時代の人々にとっては、聖書は誤解と錯覚で受け止められていたのだと言っているようなものであり、こんなおかしな議論はないし、それはキリスト教の存在自体を否定するものと言わざるを得まい。

 前にも述べたが、ウォルトン氏の議論には、「古代中東」が指すのはどこからどこまでなのかを明確に指摘することが不可欠であるはずだし、聖書の中でも、どこからどこまでが「古代中東の世界観」の影響を受けているということなのか、その区分の妥当性も含めて明示する責任があるはずだ。さらに言えば、新約の弟子たち、いやイエスご自身は、そういった「古代中東の世界観」を共有していたのか、それとも別の世界観の中にあったのか、だとしたら新約の人々も誤解していたのか、それともちゃんと認識した上でのものなのか、もし認識していたのであれば、今日の私たちは新約の記述によって十二分に誤解なく「古代中東の世界観に基づいて書かれたはずの旧約」をも理解できるということになりえるはずであるし。というように、そのあたりの丁寧な議論と論証は、このような説が提唱されるからには不可欠のものであると、私は考える。だが、少なくともこの書にはそういったものは存在せず、また、この書には書き記されていないが、他の専門的な書においては十二分に検証済み、というような様子も感じられない。いや、たとえ他の書で扱われていたとしても、少なくとも簡潔な説明としては述べられるべきものであって、それを割愛している、または欠いているのであれば、重大な欠損であろうと私は思っている。

 この話はここまでにしておく。

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