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創世記1章の再発見より 3

 機能的側面に注目すべき、との指摘、またそこで紹介されている機能的意味合いの中身には深く賛同しつつも、この書がその議論を持ち出している目的については戸惑いを覚えている。

 それにしても、機能的なことに注目することが、なぜ、物質的な意味合いを排除することになるのか、ウォルトン氏の論理には疑問がある。機能面への関心を大切にすることは有意義だけれど、物質的なことについての意識が完全に排除されていると証明することなど、もともとからして不可能であるし、また、ウォルトン氏の提示している証拠は、あまり意味を持っているとは思えない。

 たとえば46-48ページにバーラーに関する用法の一覧が載っていて、これを見れば機能的な意味限定であることは一目瞭然というふうに結論づけられているのだが、どうだろうか、これらの中に機能的な意味合いを見出していこうとするのは可能でも、物質的な意味合いとして受け取ることを否定すべき理由は見出され得ないように、私には思われる。

 いや、もともとからして、物事を機能的と物質的と区別することなどあり得ない。それは現代人の感覚であって古代人は違うのだ、というふうに主張されるのかもしれないが、その根拠がこの書で十分に示されているとは思えない。それに、古代人とひとまとめに言うけれど、はたしてどこまでのことを指しているのか。創世記が書かれた時点のことだけなのか、それとも、ダビデやその後の預言者たちの時代も含めるのか、あるいはギリシャ、ローマの時代も、やはり、物質には関心がなくて機能的なことにしか思いが向かなかったという意味なのか。

 ローマをも持ち出したのは、新約に関係するからだ。もし、ローマの頃は物質的な関心を抱いていたのだとするならば、当然に、キリストご自身が語られた際にはそういった世界観の中で語られたはずであり、もし、その人々に対して、物質的な意識は排除して機能的なものにのみ注目すべきだと思われていたのだとすれば、そのことはかなり強く明示されていたに違いない。彼らが創世記を読むときには現代の私たちと同様に「物質的」なことに「捕らわれて」読んでいたはずで、神が最初に指し示したのが「機能的」なもの限定の話だったのならば、その点を修正すべく力説されて当然と思う。だが、新約の中に、そういった議論を見出すことはできないだろう。

 それに、ウォルトン氏自身が言うように、神は物質的な創造もなさったのだとすれば、たとえ、古代中東の人々にとって馴染みがあるのは機能的な面だったとしても、物質的なことについても言及されたはずだとも思う。人々が理解できないから何も語らずに沈黙を決め込むなど、聖書全体において示されている神の語られ方とは明らかに違う。神の語られることは人の思いを越え、しばしばその時点では理解できないことをも語られているのだから。

 神が、直接の読者の理解を意識して語られていることはその通りだと私も考えるし、解釈する上で、そのことを大事に考えつつ読むべきこともその通りだと思う。だが、神ご自身がそれらの読者によって制限されると考える必要性はなく、それはまた聖書の理解としてはかなり狭すぎるものだと私は思う。その姿勢では、ウォルトン氏が批判している「物質的」な視点でばかり創世記を読もうとするのと、実は同じ課題を抱えることになるのではないかとも考える。
(続く)

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