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10月の終わり

 この時期なので、宗教改革関連にも触れておきたいので、今週、教会の週報に書いたものを転載しておくことにする。教会のホームページに載っているのと全く同じだが。

 10月の終わりは宗教改革のことを思い出す機会になる。昨年は500年の節目に当たっていた。あの改革はローマ教会という仕組みによって形成されていた当時の西方教会が、神の言葉である聖書そのものに基盤を戻していくことになる大事な転機となった。カトリック側にとっても変革の良い機会となり、後に日本にやってきたイエズス会も、プロテスタントへの対抗という認識ながらも、ローマ側の中での良き変革をもたらしたものだ。
 ただ、組織によって統一されていた枠組みが崩れたことは、多様な信仰理解を呼び覚ますきっかけともなった。以前なら組織の権威によって対処できたものが、他者から否定されたら新しい集団を形成すればいい、という概念が広がったので、自由と放縦の境目が難しくなった。信仰が本来持つ豊かさや幅の広さを思うと有意義な変化だったが、異端などの間違った教えに対抗するための従来的な仕組みが失われたのも事実だ。古代キリスト教においてなされていた、世界のキリスト教が一度に会して神学的課題に取り組むというようなあり方は、もはやありえない。
 とすれば、人々の手に残されているのは、聖書そのものに聞き続けるという不断の取り組みである。それも解釈の仕方によって違いが生ずるという指摘はあるけれど、誠実に、かつ真剣に取り組んでいくならば、たとえいくつかの異なる結論が出てきたとしても、相互に理解し、尊重し得る内容として見出していくことができるはずだと、人々は信じて、聖書にこそ神の導きを求め続けてきた。時に人間的思惑の中で衝突することもあったが、諸教派は自らの確信は保持しつつも、聖書理解の可能性の範囲や強調点の違い、あるいは適用面での食い違いなどは許容して共に取り組んでいくという姿勢を、徐々に見出してきたのだ。組織的にはバラバラになりやすい形態だが、真の信仰理解には有意義な効能をもたらしたのだ。
 だとすれば、今も私たちは、個々人として、教会として、あるいは団体としても、聖書の指し示す真実を尋ね求め続け、他者の理解に注目し続ける必要がある。神の確かな導きと支配を信じているのならば。

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