« 「キリスト教と戦争」 | トップページ | 日暮れが早い »

振り返るなら

 戦争に関する本を読んでいたからか、関連することを書き留めてみたいと思った。

 戦争が終わると、多くの場合、それを振り返る作業がなされるはずだ。勝った側は、その勝利が決定的なものであったことを誇示する取り組みを進めるだろう。あるいは、自分たちの正当性を明確なものにする作業もなされるはずだ。そうやって圧倒的な勝利を世界に印象づけることは、その後の支配のために役立つからだ。曖昧にしたり、ぎりぎりで勝ったみたいな話にすると、状況は混沌とする可能性が出てくる。とは言え、勝者の意識の大半は、これから先の取り組みへと傾けられているはずだ。勝って支配権を手にしたからには、立ち止まっているわけにはいかないからだ。

 負けた側は、まずは責任の所在を明確にすることが欠かせないだろう。全面的に負けたなどとは言いたくないから、誰かが失敗したのだという論理を打ち立てるはずで、そこを処断することによって、国全体としては大丈夫なのだという認識を持とうとする。王国などで、国有自ら陣頭指揮を執ったのに敗北したような場合は、王を処断はできないから、立ち直りに時間がかかることになりかねない。日本の場合、道義的な是非は別として、一部の指導者たちが戦犯として処断されたことで、国全体は切り替えが早くなりえたのは事実だろう。もう一つ、負けた側が問い質そうとするのは、なぜ負けたのか、負けない方法はあり得たのかどうか、だと思う。太平洋戦争についても、しばしば、どこの戦略、戦術がしくじったのか、という話はよく耳にする。そうやって次の戦いに生かそうとするのは、古今東西、よく見られることだ。この手の探求をおろそかにしていると、何度も負け続けることになりかねない。もっとも日本の場合、先の戦いから70年以上も経っているので、世界情勢も、技術面も全く別物と言うべきだから、過去の戦いの分析が果たしてどこまで役に立つかは、かなり疑問だ。

 というようなことはよく語られ、検証されているのだろうが、おそらく勝者側も敗者側も、どちらもまず行おうとしない検証があるように思う。それは、戦わずに済ませることができる可能性はなかったのかどうか、そのためには何が必要だったのか、どのくらいの犠牲を払えば戦わずに済んだのか、という議論だ。むろん、戦争になるのにはそれなりの重たい理由があるわけで、何となく、ちょっとした気分で事が始まったわけではない。そんなことは分かっている。だが、何とかして戦わないで事を収める方法を、ぜひとも考えてみよう、探してみよう、振り返ってみよう、という部類の論を、ほとんど耳にしたことがない。

 それは戦争に反対し、平和を訴える人々においても、だ。残念ながら、戦争は悪である、という理念だけでは、この世の戦争は止まらない。いや、信仰の面から言えば、神ご自身が人々の心に働きかけてくださり、人々がそれに寄り添い、委ねるならば別なのだけれど、でも、そうではないこの世の現状においては、理念を説くだけでは戦争は止まらない。この事態を何とかするためには、戦わずに済む方法を、道筋を、それも魅力的に思えるようなものを、必死になって捜しだし、提唱していくしかないだろうと思う。それができるようになったら、戦うことそのものを切望する人々を別にすれば、この世は大きく、戦うことから移行するのではないかと、期待する。

 だから、そういう意味での戦争の専門家、戦わずに済ませるための知恵を提示できる専門家の到来を、ぜひともと願う。これは決して夢の話にしてはいけないこと、だと思うから。

|

« 「キリスト教と戦争」 | トップページ | 日暮れが早い »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/49212/67403509

この記事へのトラックバック一覧です: 振り返るなら:

« 「キリスト教と戦争」 | トップページ | 日暮れが早い »