« 子どもの | トップページ | 痛み »

またしても

 ヤンシーの新しい、と言っても春に翻訳が出た本を読み始めている。

 率直に、いや赤裸々にと言ったほうがいいかもしれない語りは、ますます鋭くなってきているようで、色々考えさせられることがあるが、それはまたいずれ。冒頭部分で、アメリカにおける人種差別の課題が取り上げられているのを読みながら、思ったことを少し書いておく。

 アメリカで公民権法が成立して、法律の上での差別が終わったのは1964年だと言う。社会の実際的な事柄は今もなおだろうが、ともかく制度として、の話だ。一連の経緯を、あまりちゃんと見てきていなかったからではあるが、この年次は衝撃的だ。何しろ、私が生まれたのはもっと前なのだから。アメリカは民主主義の旗印を標榜し、公平で平等な選挙などを世界に推進しているわけだが、自らがそれを手にしたのがこんなに後になってからとは。日本で選挙権の平等を確立させた時に、自らはまだだったということになる。うーむ、闇は深い、と思わずにはいられない。

 差別の様子が、若きヤンシーの体験をもとにして書き記されているが、その様子も心痛むものだ。差別自体もそうだけれど、ヤンシーの認識としては、アメリカ社会全体としては差別撤廃の方向で動き出していて、それに対する反発と抵抗の思いから、とりわけ南部の、保守的なキリスト教の土壌があるところにおいて、なおいっそう過激なまでに差別が強くなっていっていたということのようで、それもまた、困惑させられるものだ。かつて、「風と共に去りぬ」などで描かれていた様子の中には、制度としての差別は深く存在していたけれど、人々の実際としては他の人種に対しても温和で、心を尽くしていくような様子が見られたように語られていたけれど、そういうものすら消え去ってしまって、自分たちの身を脅かすと思うようなものは徹底排除、というような雰囲気になっていたようである。

 むろん、ヤンシーが描いているのはアメリカの一部の姿に過ぎないことは分かっているが、それでも、平等を唱う国において、キリスト教信仰を標榜する人々の間で、ああいう状況が存在したことは、それがどの程度の割合かに関係なく、震撼させられるものがある。

 と同時に、今、アメリカの現政権に対して、いわゆる保守的なキリスト教勢力が応援をしているのだと、新聞などでもしばしば取り上げられているわけだが、その背景には、自分たちが大事だと思ってきた価値観などがくずれさろうとしていることへの抵抗感、必死さがあるのだと、いろんな方面で耳にする。でも、そうなのだとしたら、彼らはあの時代にしてしまったのと同じ過ちに、再び陥っていこうとしていることになるのではないのかと、そう思わせられる。人はしばしば、自らの身を守ろうとするときに最も過激になり、他者に対して攻撃的になる。でもそれは、決して神の喜ばれる姿ではないし、聖書が告げるような姿勢ではない。たとえそこにある価値観が真に大切なものだったとしても(その点すら、しばしば人は間違うものだけれど)、だとすればなおさらのこと、それをどうやって実現していこうとするのかにおいて、まさに聖書的な価値観に合致した手段を選択すべきであって、攻撃とか打倒とか排除によって成し遂げられるものではないことを、強く意識すべきだろうと、そう思う。

 ということで、さわり部分での感想に過ぎないけれど、昨今のアメリカはかつてと同じ轍を踏んでいるのかと、だとしたら、どうか是非、気がついてほしいものと、切に願うばかりだ。

|

« 子どもの | トップページ | 痛み »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/49212/67434892

この記事へのトラックバック一覧です: またしても:

« 子どもの | トップページ | 痛み »