道を選ぶ

 ある雑誌に、聖書に関する学問の優秀な教授が、その職を辞して貧民街での働きに携わることにした際の思いをつづった手紙が掲載されていました。私はその言葉に違和感を覚えました。

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勇気

 教会のひとりの女性が、高齢者ホームの自室で聖書研究会を始めようとしています。先日は、入居仲間にもう一人、クリスチャンの方がいて、その方と私との3人でしたが、お二人して、他の仲間たちも誘っていこうという心意気です。

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信仰の表明

イスラム教の知人を持つ人が言っていた。彼と付き合うときには、どこのレストランに入るかを考えねばならないし、お祈りの時間は携帯にも出てくれないと覚悟しておかねばならない、と。それを聞いて、なるほど、相手の信仰がちゃんとわかっているというのは、付き合う上で実に便利なことだ、と思った。

信仰に限ったことではないが、その人には、その人なりに、大切にしていることがあるはずだ。もし、そのことがわかっていたら、喧嘩を売るつもりでない限りは、初めからちゃんとそのことを配慮して、よけいな衝突はしないように気をつけるだろう。せっかく、一緒にご飯を食べようとしているのなら、違和感なく一緒に食べられる場所を探すのが常識だし(好き嫌いの問題でも、アレルギーの問題でも、仲良くしたい相手ならば、ちゃんと配慮するはずだ)、その時間は電話をしないというくらいの配慮は、こちらとしては何ほどのことでもない。こういうのを、だから宗教は面倒だ、と考える人もいるのだろうが、それはむしろ、配慮が足りないと言うべきものだと思う。

だとしたら、そのことは付き合っていく上での基本的な情報として、初めから理解しておきたい要素と言える。何も堅苦しく考える必要はない。相手の好みをわきまえておく、という程度の感覚で十分だ。信仰は、その人にとって、大事なことがたくさん含まれている要素の一つのはずだ。だとしたら、それはその人と付き合っていく上では欠かせない情報のはず。

そのような信仰を表明することが、何か違和感のあることとして見なされたり、あるいは、プライベートなことだから、というように顔を背けられてしまっているのは、ちゃんと相手と関わっていこうとする上では、かなり大きな障害となっているのではないか。あるいはまた、表明することを自制したり、または恥じ入るというのは、相手とは挨拶程度のおつきあい以上のことはしたくない、と言っているようなことにもなりかねない。そうまでは言わないとしても、相手の信仰から生ずる事柄を配慮することなく、あれこれと関わりの多いつきあいを進めているとしたら、そのとき、自分はその相手に、かなり無理難題を強いていることも多いのだな、と自戒すべきだと思う。

このことは、相手の信仰を、それはそれとして尊重することが大前提ではある。私は牧師であるから、むろん、いろいろな方にキリストを知ってほしいと思うし、信じてもらえたらと願ってはいる。だが、そのことと、今現在、その人が持っている考え方を尊重することとは、別の話だ。このあたり、キリスト教の中も含めて、勘違いがあるように思われるのが、どうも気にかかっている。長くなりそうなので、この話はまた、改めて書き留めてみたい。


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